〈宇宙の缶詰〉3
エリオが年に一度、〈銀河の最果て〉を訪れるようになったのは五年前。それは彼がまだ華奢な少年だった頃で、シイナが赴任した年と重なっている。
片道二週間かけて、観測基地内でたった四日間――正確には三日と四分の一日――を過ごして、また二週間延々と揺られて帰る。余程の銀河鉄道マニアならともかく、バカンスと呼ぶにはあまりの強行軍だ。だが若さの為せる技なのか、彼はそんな疲労を蚊に刺されたほどに感じていないようだった。
「地球には問題が山積している、貧困、戦争、食料不足、エネルギーの枯渇、気候変動、環境汚染、民族
紛争、パンデミック、流星群障害、エトセトラエトセトラエトセトラ」
「…………」
「若い身空で隠居生活? そりゃ単なる引きこもりじゃないか。本人は良いかもしれないが、恩を仇で返す仕打ちだ」
「…………」
「つまり俺が言いたいのはこうだ。生命を育みし、母なる地球。そこで暮らし、奉仕し、新たな生命を繋ぐ。それってのが真の親孝行に繋がるわけで――」
「いい加減にして。あなたの、あなたたちの理屈を私に押し付けないで!」
翌朝から金魚の糞のごとく付いて回っていたエリオを、ついにシイナは一喝した。くるりと向き直ったはずみに、束ねた髪が、興奮した猫の尾のように膨らむ。今まで無視していた分、鬱憤が溜まっていたのだろう。彼女の猛攻が始まった。
「私は両親の顔も覚えていない。あなたみたいに蝶よ花よと純粋培養されたわけじゃないの!」
「い、いや、違うって、だから地球は人類の母であって、人類皆兄弟で」
「兄弟? 私達が?」
シイナの顔が皮肉げに歪む。気圧されたのか、今度はエリオが黙り込んだ。
「正直に言ったらどう? 体裁が悪いので帰ってこい、そう僕のパパとママが怒っていますって」
「…………」
「〈銀河の最果て〉の仕事には意義があるし、愛着もある、何より誇りを持っている。私は望んでここにいる。あなたのように親の言いなりになっているわけじゃない!」
そう怒鳴ると、シイナは流星の素早さで〈庭園〉へと繋がる出入り口を飛び出した。
後に残されたのは、飼い主に叱られてしょげかえった犬。少々気の毒だと思わないでもない。だが、彼の説得――本人はそう信じて疑わないようだが――は、あまりに遠回り、かつ稚拙だった。あれでは喧嘩を吹っかけているようなもの。一方を貶めるやり方では、うまくいきっこない。
そう。エリオが〈銀河の最果て〉くんだりまでやってくる理由はただひとつ。シイナを地球に帰還させることだった。彼らは親戚で、エリオは一族の代表としてやってきているらしい。まあ、代表というより使い走りというところだろう。彼はまだ学生で、体力と暇を持て余しているから。
「飲むかね?」
レムはキッチンから出ると、白いボウルに入ったミルクティーを差し出した。
「聞いてたのか?」
「あんな大声で、聞かないほうが難しい」
ダイニングとキッチンは壁一枚しか隔たっていない。ついでに小窓が付いている。恨みがましい視線に、レムは真っ当な事実を返した。
エリオはボウルを受け取りながら、ダイニングの椅子に大きな体を押し込めるように座った。溜息がミルクティーに小さな漣を立てる。
「一体、何がシイナを引き止める? アンタからも言ってくれないか、地球に帰れって」
「さあね。だが彼女は〈銀河の最果て〉の『
と。エリオは向かいに座ったレムを神妙に凝視する。
「まさか、アンタ」
言い掛けて、だが、いやいやそれは無いなと一人合点したように頷く。そしてずずいとテーブルに身を乗り出し、
「アンタだっておかしいと思わないか? そりゃちょっとトウは立っているけど、シイナは十二分に若くて美人だ。そんなイイ女がこんなド田舎に引っ込んでいるなんて」
「詮索は簡単だよ。だが、向かい合ってお茶を飲む以上に勝ることは無いと私は思っている」
その言葉に、エリオは猫だましでもされたように瞬いた。
助手の過去。気にならないと言えば嘘になるかもしれない。だが現況に支障が無ければ、彼女が某国の諜報員であろうが、酒場の歌姫であろうが、星の王女様であろうが、構わなかった。しかし。
「君は本当に彼女の親戚なのかね?」
エリオが来てようやく丸一日を終えようとしているが、既にシイナは三度怒鳴っている。しかもそれは抑えて抑えて、堪えて堪えての結果なのだ。二年前はここまで険悪ではなかったが。もう諦めたのだと安堵したところの来訪に、苛立ちが倍増したのかもしれない。そのうち超新星のごとく大爆発されては困る。
レムが数年前から抱いていた疑問を口にのぼらせると、エリオは躊躇いつつも答える。
「血の繋がりはない」
「ほう」
大柄な若者は、居心地悪そうに尻をもそもそ動かす。やや長めのブラウンの髪をぐしゃぐしゃ掻き混ぜる。つぶらな人懐っこい瞳をきょときょと動かす。
しばらくの後、彼はしっかとレムを見据え、助けてくれないか、と囁いた。
「春には俺も就職して、光年単位の旅行なんかできなくなる。今年がラストチャンスだ。事情を知れば、博士も彼女は帰るべきだと考えるさ」
★
喩えるならば北極星。その人は、自分にとってそんな存在だった。
血が昇った頭に河風は心地良かった。通り道がうっすら視えるのではないかと思うほど風は澄んでいる。
〈庭園〉を歩きながら、シイナは嘆息した。無視して、当り散らして、後先考えずに飛び出すなんて、子どもじゃあるまいし。博士はあのやりとりを聞いていただろうか? 羞恥で再び頬が火照ってくる。しかし、あのまま一分一秒だってエリオとは一緒にいられなかった。
俯かせていた顔を上げると、金、銀、砂子の中洲で二羽の鳥が休んでいるのが目に入った。羽飾りがある鳥と無い鳥。おそらくつがいだろう。二羽は仲睦まじく互いを毛繕いしている。
……死んでも、君を離さない。
ふいに、そんな台詞が脳内で再生される。抱きすくめられ、耳元で囁かれたのは一体いつの頃だったか。
自分には身寄りが無い。それ自体、恥じることではないが、無条件に庇護してくれる大人がいない子どもは惨めだ。周囲の大人の都合に振り回され、幾度、意志を、人格を、矜持を、踏みにじられただろう。
早く大人になりたかった。確かなものを掴みたかった。揺らがぬ何かが欲しかった。
必死に勉強して、奨学金を勝ち獲って、進学した。教授に紹介してもらった科学技術研究所でのアルバイト。そこで出会った若きビジネスマン――その人は、とある名家の御曹司だった。
出会って数カ月での求婚。まるで夢物語。シンデレラ・ ストーリー。
だが、戸惑いもした。俗な言い方をすれば、住む世界があまりに違っていたのだ。親族の反対、口さがない噂、あからさまな嫉妬。それはおとぎ話とはほど遠い、人の情念が渦巻く暗黒星雲。きらきらしい天の川を背景に、黒々と口を開けた
だけど、その中で北極星が輝いていたから。羅針盤のように未来を指し示してくれたから。永遠の灯台として照らし続けると誓ってくれたから。
と、つがいが揃って中州から飛び立った。寄り添って、空を舞う彼ら。その姿を、乞うように見上げながら思う。
ああ、あんなにも自分は若かったのだ、と。
――想像もしていなかったのだ。北極星が消えてしまうだなんて。
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