〈宇宙の缶詰〉2

 河岸にはススキ野原が広がり、さあさあと風にさざめいていた。それはまるで、一本一本が白いハンカチを振って、去りゆく季節に別れを告げている様にも見える。時折、尾花の隙間からまっ青なリンドウが顔を出し、ランプのようにちらちら瞬いては揺れた。

 観測基地を出て、シイナは〈庭園〉と呼ばれる惑星地表の自然保護区域を歩いていた。


 〈銀河の最果て〉は、厳密にいえば「最果て」ではない。太陽系から人類がもっとも遠く離れた場所に造った建造物であるため、便宜上そう呼ばれているだけで。天体、気象、生物、周辺惑星の探査・観測などを目的とした施設だが、一通りのメニューは消化している。現在、シイナの主な仕事は、観測基地の雑事と〈庭園〉の見回りぐらいだった。


 背の高い草を掻きわけて岸辺まで下りると、水の匂いが濃く立ち昇る。靴底がキシリと硬質の砂を噛み、鼓膜と背筋を震わせた。

 滔滔と流れる銀河の水面は、磨き抜かれた黒曜石。黒々としながらも、時にぎらりと鋭く輝く。河べりにしゃがみ込んで手を浸せば、水はしびれるほど冷たく、怖いぐらいに澄み切っていた。瑠璃、玻璃、黄玉、柘榴石、猫目石、緑松石……川底に敷き詰められている色とりどりの礫がはっきりと見通せる。一見、浅いが、実はつま先が届かぬほど深い。シイナはうっかり落ちてしまわぬよう、用心しいしい身体を起こした。

 ずっと向こうの上流は、紫紺、群青、紺碧に黒を混ぜたような色合いで、縁がぼおっと白く淡く発光しており、空との境界を曖昧にしていた。その光は、初めは小さなマッチ箱程度であったが、見つめていると、みるみる大きくなってゆく。畳んであったシーツを勢いよく広げるように。やがてそれは全天を覆い尽くし――

 賑やかな啼き声、夜桜のごとく降りしきる羽、暗天を埋め尽くす無数の白い影……

 シイナは感嘆とともに、空を仰いだ。彼方より飛来した白い鳥の群れ。清らかな銀河の水を求めて、星から星へと渡り飛ぶ、星間渡り鳥だ。姿形は地球の白鷺とほとんど違わない。正式な学名はまだ無く、シイナたちは単に、鳥、白鷺、Egretイーグレットなどと呼んでいた。


 群れは銀河の中洲に降り立つが、一際大きな体躯を持つ雄鳥だけがシイナの前に舞い降りる。

 彼はこの群れのリーダーだ。仲間が食事をする間は、こうして外敵と向き合い、皆を守護する。敵とみなされているのは少々複雑な気分だが、とっくり見つめ合えるのは喜ばしい。それほどに彼は美しかった。

 瑪瑙の嘴、黒真珠の瞳、蛋白石の輝きを帯びた羽毛。首はしなやかなS字カーブを描き、ふっくらとした背や胸からは細い細い生糸のような飾り羽を垂らしている。

 なんと高雅、なんと優美、なんと威風堂々。

 何度見ても、熱い驚きと感動が、身体の芯から湧き上がる。シイナはその雄鳥にだけ名前を付けていた。もっとも、自身の胸のうちに限ったもので、レムにすら教えていないが。その名が喉元まで出かかった、刹那。


 ザァっ――一斉に鳥たちが羽ばたいた。


 シイナの頭上を飛び越え、気流に乗り、一息に駆け抜ける。広げた双翼が星明りに透かされ、鍵盤のように行儀良く並んだ骨格までがはっきりと見て取れた。さながら、夜空に張り付けられた鳥の標本。その神がかった精密さに思わず息を呑む……


 と。夜陰を震わす、低い汽笛がシイナを陶酔から呼び覚ました。飛び去る鳥たちと交差して、それは唐突に虚空から姿を現す。

 黒鉄の箱がいくつも連なった不恰好な芋虫。砕いた水晶、煌めく雲母、閃く銀箔……それは星よりも鮮烈な燐光を放ちながら、螺旋を描いてゆっくりと滑り降り、観測基地に併設されている無人プラットホームに吸い込まれてゆく。

 ああ、そうだ。吹き上げられた髪を押さえながら、シイナは吐息を落とした。

 今夜は年に一度の星祭り。そして、〈銀河の最果て〉に銀河特急鉄道エクスプレスが到着する日だった。





 銀河特急鉄道の到着は歓迎すべきものだ。

 現在、〈銀河の最果て〉と地球を繋ぐのは、年に一回のこの鉄道のみ。いくつもの転送門ゲートを潜り、何万光年と離れたこの地へ、半月かけてやってくる。そして四日間停車した後、折り返し地球へと帰ってゆく。

 地球から物資を送ってもらうには、銀河特急鉄道の到着を待たねばならない。〈宇宙の缶詰〉が使えないわけではないが、届くか届かぬかわからぬ賭けに乗るよりは一年待ったほうが賢明と言えた。食料はほぼ自給自足しているが、問題なのは生活雑貨などの消耗品だ。今回、レムはボールペンの替え芯を心待ちにしていた。

 だが、何にでも例外はあるもので、銀河特急鉄道から降車する全てを歓迎できるわけではない。注文しておいた荷物を運び入れる自走台車を押し退け、どかどかと観測基地に足を踏み入れた男を、レムは嘆息交じりに見上げた。


「シイナ!」


 濡れたように真っ黒な上着を着た背の高い青年は、大声を張り上げる。うろうろとフロア中を歩き回るその姿は、主を捜す大型犬を彷彿させた。


「エリオ」

「シイナはどこだ!?」


 青年――エリオは名を呼ばれ、ようやくレムに気付いたかと思えば、二年ぶりの再会だというのにまともな挨拶ひとつ寄越さない。成長したのは図体だけらしい。


「彼女ならここにはおらんよ」

「どこに隠した」

「誰も隠しとりゃせん。〈庭園そと〉の見回りだよ。銀河特急鉄道の窓から見えなかったかね?」


 言い終えてハッと気付く。咄嗟、レムはきびすを返したエリオの上着の裾を掴んだ。それはぐっしょり重たく湿っていて、至極不快な感触だったが、なんとか堪える。確か彼は推進球ロケットボールの選手だとか言っていた。身長が高いだけでなく、胸板は分厚く、四肢は引き締まり、当然力も強い。そんな若者を引き止めるのは、痩身のレムには至難であったが、


「〈庭園〉には必ず単独で降りること、それがルールだ。鳥たちを混乱させてしまうからな。そもそも君には宇宙生物調査士の資格が無い、観測基地の外に出ることはまかりならん」

「二週間もかけてここまで来たのに、まだ待てっていうのか!?」

「二週間かけたんだ、もう十分ぐらいなんでもなかろう。大体君は諦めたのではなかったのかね?」

「誰がそんなことを」

「彼女が言っていたよ。実際、去年、君は来なかった」

「感染症にかかっちまったんだよ」


 無理やり乗車しようとしたら、宇宙にウイルスばらまくつもりかって駅員に叩き出されたんだ。ようやく力を緩めて、エリオは呻く。


「でもちゃんとメールを送って」

「メールは磁気嵐による通信障害で滅多に繋がらん」

「缶詰も流した」

「あれの到達率は十割には程遠い。おそらく今頃、宇宙の藻屑スペース・デブリになっておる」


 向き直った彼は、ハンサムと言えなくもない面に、骨を取り上げられた犬そのままの情けない表情を浮かべていた。

 と。ドアが開き、シンプルな黒のワンピースの上に白衣を羽織ったシイナが入ってくる。


「シイナ!」


 エリオは歓声にも似た声を上げる。対する彼女は視線を落としたまま、柳眉をひそめた。それは冗談めかして怒ることはあっても、沈着冷静、明朗闊達、小春日和な彼女が滅多にみせない表情だった。だが実のところ、レムはこの顔が嫌いではない。本物の美は、怒りにこそ圧倒的な凄みが表れる。


「シイナ、こんな僻地で老人の茶飲み相手をしている場合じゃない、君には地球で果たすべき義務がある――」


 走り寄る犬を、シイナは無駄のない身のこなしで避けた。つんのめったエリオの背に、彼女は小さくしかし鋭く投げかける。


「この床は何?」


 先ほどのやりとりで上着から滴ったのだろう、床には点々と水滴が落ちていた。エリオはきょとんとして、その後ばたばたと無意味に裾を捲くり、


「今、星祭りだろ。 汽車の中で窓を開けて寝てたら、ケンタウルに露降らされて」

「ここはタチバナのご実家じゃないの。すぐに拭いて頂戴」


 理由はどうでもいいとでも言わんばかりに冷然と遮り、シイナは立て掛けてあったモップを押し付ける。エリオは呆然と受け止める。


「博士、私は荷の整理をしてきますので」

「ああ、頼むよ」


 凛々しい後ろ背を見送りながら、手料理は延期だな、とレムは悟りめいた境地に至っていた。

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