〈銀河の播種〉3

 時は師走。クリスマスと年末を控えた街は、十二月の異称どおり、皆、早足で行き交う。まるで深海をすいすい回遊する魚のよう。

 カップルは足を止めてイルミネーションに魅入っており、彼ら自体が街の風景の一部と化していた。俺はといえば、仕事帰りの疲労と肩に掛けた荷物のお陰で、地上の亀じみた鈍足で歩みを進めていた。

 それでも時折、ショーウィンドウに飾られた品々に目を奪われる。ブランド物のバッグやらマネキンが纏うコートやらきらびやかなアクセサリーやら。どれもこれもこの大荷物に追加したいとまでもは思わなかったが。そもそも似合わない。俺にもあいつにも、二重の意味で。

 先週末の一件を思い出し、呼吸にしては重く湿った吐息が洩れた。歩きながら夜空を見上げる。イルミネーションやショーウィンドウ、あるいは隣の恋人に夢中で、他の誰も見やしない街の夜空を。

 夜に排出されたなら、溜息も車の排気ガスも焼鳥屋の煙も、ただ白く漂い霧散する。けれど、胸の重苦しさは、よほど居心地が良いのかいつまで経っても去ろうとはしなかった。


「おかえんなさーい、遅かったねー」


 玄関のドアを開ければ、姿は見えねど能天気な声が響いてきた。

 玄関と部屋が仕切られていることを条件に探した1LDKマンションであり、荷物も下ろさぬままリビングへ通じるドアを開ける。そこにはコタツに入ってぬくぬくしている女がいた。


「……なんでいる?」

「ガスメーター裏の合鍵使って」

「そうじゃなく」

「お休みだから」

「だったら余計に」

「ご飯、用意しておいたよ」

「それはいいけど」

「コタツ出したんだね、センスあるー」

「さしすせそ、使い方間違ってるだろ」

「今日、泊まったら駄目かなあ?」


 ミヤコは首元までコタツ布団を引っ張りあげ、「帰るのは絶対イヤです、ってか面倒臭い」と無言の主張をする。俺は頷きもせずに荷物を床に下ろし、ミヤコの向かいのコタツへと潜り込んだ。

〝わたし異星人だったの〟発言の翌朝、俺はミヤコに所属する派遣会社の担当者に電話をさせて有給を申請させた。

 土曜の朝っぱらから携帯を鳴らされた担当者は、当然ながらひどく不機嫌であったが、話をするうちにどんどん親身になってきた。

 ――うちみたいな中小の派遣会社には有給なんかない、そもそも休みをとったらやる気がないと思われて契約切られる、君に有給なんて言われるとはびっくりしたよ(ここ裏切られたニュアンス)、僕としてはあなたに長く勤めて欲しいと思う、もしかして職場でトラブルでもあった? 相談乗るから食事でも――そこでスマホを奪い取り、労基に垂れ込むぞ下衆野郎! と叫べば、あっさり有給一週間分を取得できたのだった。

 そうして愛車でミヤコを安普請のアパートまで送り届け、ゆっくり休め、とりあえず寝ろ、なんだったら医者に行け、なるたけ一人で受診してほしいがどうしても付き添いが必要なら連絡しろ、と告げて。

 そして今日は週の半ば水曜日であり、コタツの天板の上に並べられた、肉じゃが、ひじきの煮物、きんぴらごぼうと、全て甘じょっぱい味付けのおかずをぱくつくミヤコはいたっていつも通りのミヤコであった。食欲旺盛、天真爛漫、健康優良な。


「今日遅かったね、どこか寄ってたの?」


 ああ、と少し間を置き、ナップザックに詰めた荷物を一瞥した。

 残業だらけの会社だが、週の中日はノー残業デーとなっている。というか、明日の居残りへの備えと言える。ともかく、いつもはもう一時間ほど早い。

 別段、隠すほどでもない。図書館に寄ってきたと言えば、馬鹿の一つ覚えなのか、すごーい入れたのー、となぜか目を輝かせる。


「県立は午後八時まで開いているからな。残業しなきゃ余裕で間に合うぞ」

「あ、そうか。また間違えた。図書館は賢い人しか使っちゃいけないって勘違いしてたんだっけ」


 あん? と疑問符をあげれば、ミヤコはだまされてたんだーと、ネジの緩んだ笑みを向けてきた。

 曰く、図書館は賢めな人しか利用できず、偏差値平均六十五以上になったら晴れて図書館から利用カードが送られてくる、そう教えられたのだと。大人になって嘘だと知った今も、なんとなく敷居が高く行きづらい、と。

 正直、呆れた。ミヤコ本人だけでなく、おそらくは軽い気持ちでこいつを騙してその事実すらすっかり忘れているだろう輩に。

 詮無きことと思いつつ、俺はげんなり言ってやる。


「……小学生どころか未就学児だってうじゃうじゃいるだろ、図書館は」

「賢い両親から生まれた遺伝子的エリートチルドレンなのかなあ、って。だったらわたしが駄目な理由も納得できるし」


 どうしてこう柔軟性に富んでいるというか、妄想力が豊かというか、無駄に納得力が高いのか。

 味の染みた肉じゃがを頬張りつつ、


「明日も休みだろ、近くの図書館行ってこいよ。……なんだったら利用カードも作ってこい」


 ミヤコは二三度、目を瞬かせた。そして、それもいいかも、と素直に頷く。その反応に正直なところ安堵した。有給をもぎとって得た休養はプラスに作用しているようだと。

 食事が終わって洗い物をするミヤコの横にしゃがみ込み、冷蔵庫を開く。箱の数と中身を確認して、やや心許ない心地になった。今日が水曜、明日は朝から現場で夕方から会議で遅くなる、金曜の予定はなんだったか……物思いに耽っていると、ねえねえ、と頭上から声が降ってきた。


「この間は変な話してごめんね」


 反省してる、と呟く横顔はいつになく神妙だった。普通の二十代後半の女みたく。俺はなんと言って良いかわからず、曖昧にああと声を漏らす。それでね、と躊躇いつつもミヤコは続けた。


「土曜日の午前って空いてるかな?」


 一人じゃ行けなくて。追うように小さな呟きが落とされた。


 ――御免被りたい。


 というのが本音だった。つまりは病院に付き添えということなのだろう。

 妙な間が空き、〝はい〟とも〝いいえ〟とも発するタイミングを失う。この座り心地の悪さはあれだ。学生カップルの彼女が「できたかも」と切り出してきた時の。ていうか、まさしくそのままだ。産婦人科か、心療内科か精神科か神経科か、行き先は違えど。俺は観念した。

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