喜怒哀。

くるとん

笑わない男

俺は、笑ったことがない。


産声をあげて此の方、笑い声というものをあげたことがない。喜怒哀楽はもちろんある。ただ、笑えないのだ。「わはは」と笑うこともなければ、自然と「笑顔」になるということもない。


ものごころつくころ、ついたあだ名は「おこりんぼ」。今思えばイジメのひとつだった気もするが、当時の俺は違和感を持たなかった。数年たって中学に入るころ、あだ名は「仏頂面」へと変化した。語彙力の上昇に謎の感心を覚えつつ、さすがに反抗したのを覚えている。


笑うことなく過ごした中学時代。高校時代も特に変化はなかった。唯一あったとすれば、入試面接を乗り越える関係上、口角を上げる練習をしたことくらい。鏡にうつるぎこちなさすぎる表情をもって、あきらめたのも今では思い出の1頁。


そんな俺は今、ステージ袖で緊張の汗と戦っている。


「若手お笑い芸人の頂点、その栄冠は誰の手に!」

「はい、CM入りましたー。再開まで2分でーす。」


そう、笑わない俺が目指した道…それは、お笑い芸人。ここに至る人生は、とてつもなくデコボコだった。平坦とは程遠い、がけとそりたつ壁を繰り返したような人生。


あれはとてもむし暑い、太陽の力を思い知ったある夏の思い出。高校生最後の夏。青春はそれなりだった俺は、親友と海に来ていた。彼女としゃれこむつもりだったのだが、理想と現実は違った。男ふたりで海。仕方がないので全力クロールでも披露しようと心に決めた俺。


「そういえば、3時からライブあるらしいよ。」

「ライブ?何の歌?」

「いや、芸人さん。ほら、ピザのCMに出てる人。チーズびよーんってやってる。」

「あぁ…えっと…。」


失礼ながら、名前がちっとも出てこない。


―――まぁ、共通認識は持ててるんだから良いか。


記憶力は良い方だとの自負はどこへやら。「あの」とか「あれ」とかで会話をしだす日も近いかもしれない。


「見に行こうよ。」

「えっ、暑いじゃん。」

「ステージのとこだから、日陰になるし。」

「…なら…まぁ。」


笑いではなく涼しさを求めたあたりに、俺という人間が現れている気がする。





「うひゃひゃひゃっ!おもしろかったねっ…くくくっ!」

「…。」


親友の思い出し笑いに若干の恐怖を感じつつ、ビーチパラソルのしたへと戻った俺。ライブは30分ほどだったが…とても面白かった。もちろん…というと失礼かもしれないが、笑うことはなかった俺。最低限のマナーとして、口角を上げる努力はしたのだが…かえって迷惑だったかもしれない。


「どうやったら笑えるんだろうな…。」

「まぁ、無理に笑う必要はないんじゃないの?どうしてもってんなら、声を出してみたら?わははーとか。」

「わははー。」

「見事に棒読みだな。」

「すまん。」


今のはわざとだったが、笑おうとすると似たような感じになってしまう。もちろん、面白いと思う感情が欠落しているわけではない。だが、笑えない。笑いたい。


そう思った翌日、俺は進路相談に走った。


「先生。俺、笑いの勉強をしたいです。」

「笑い…?お笑い芸人を目指すってことか?」

「いえ…笑いという感情を研究してみたいというか…どうして笑うのかとか。そういうのを学びたいんです。」

「心理学とか、脳科学あたりか。」

「そんな感じを思い描いています。」


そして俺は大学に入った。心理学部。試験の成績は…お世辞にも良くなかったのだが、面接が良かった…と勝手に思っている。「なぜ笑えないのかを知りたい」との志望理由を述べ、ぽかんとされたときはさすがに焦ったが…。


それから俺は、「笑い」を徹底的に研究した。とにかく笑いについて調べまくった。「笑わない」という、ある意味最強の対照実験材料である俺。修士論文は、有名な雑誌に掲載されたりもした。そして得た結論。


笑いたい。


そして30歳の夏、俺は芸人を目指した。最高におもしろいものを作れば、俺も笑えるのではないか。そう思ったのだ。





「CMあけまで、5、4…。」


その3秒間、40年近い人生のなかで…感じたことのない緊張に襲われた。これからの3分が、俺の人生を分岐点。そう思った瞬間、なぜか俺の口角が…自然と上がった。


「さぁ、行こう。」


相方の右肩に震える手をそえ、ポツリと呟いた。笑えない俺が目指した、笑いの頂点。そこまであと1歩。


数分後、俺は泣いていた。その涙の意味は、俺が探求し続けてきたもの…そのものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喜怒哀。 くるとん @crouton0903

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ