第45話 写真
闇に覆われた夜の世界を
続いた死体損壊事件のおかげで、人通りはほとんどない。照明がついている店もほとんどない。
街灯の明かりが不気味に輝いている。
夜には匂いがある。静かに冷える薄く湿った匂いだ。
それを胸いっぱいに吸い込む。
町の人は夕食や入浴を終えて、眠りに就く頃だろうか。
これ以上誰も巻き込みたくない。死体がどんなに美しいものでも、これ以上増やすわけにはいかない。
礼二郎を止めれば、この連続死体損壊事件は止まるのだろうか。
止まるんだよな。
灯が話してくれたサンドイッチ専門店の二軒手前の暗い建物が見えてくる。
手が掴まれた。灯の小さな手に手を一度ぎゅっと握りしめられる。
ちょっと力が強くないだろうか。
手はすぐに離れた。
暗い建物は、なんだろうな、この建物は。古くて暗くて看板はあるけど文字は消されたのか、ない。
建物の横に高めの塀との隙間がある。この路地だろうか。
ちらっと覗くと、ボサボサの白い髪が揺れたのが見えた。
いる。
「……」
「……」
灯に無言で頷いて路地に出て行くと、礼二郎のとなりの長身が軽口を放り投げた。
「まじで来た……」
路地の奥は古い病院だろうか。照明はつていないから今は使われていないんだろう。その大きな建物の前に広い庭のような空間が広がっている。そこに、礼二郎と
コートの内ポケットに手をかけた灯が俺の後ろから横に並ぶ。
礼二郎の幽霊のような薄気味悪い笑みが口に深く刻まれる。
「……ここだったよねぇ……君が、泣きながら嫌がってくれたの……」
「黙れ、下衆が」
灯の声がいつもより二トーンほど低い。
「う、ひひ……かわいかったなぁ……お姉さんは美味しかったけど、君の方は殺し損ねたから、しばらく落ち込んだんだよ。僕は君を……死姦したかった」
灯がコートの内ポケットに手を入れそうになったから、咄嗟に叫ぶ。
「黙れって言ってるだろ! ちょっとそこに座れ!」
礼二郎も弥凪も、俺が叫んだことで少し唖然としている。
「……
「弥凪……ちょっと待て。あの子、あっちの女みたいな背の高い方……なんて名前だって?」
「は? 深月ちゃんっスよ」
「真野、深月……というのか、あの子は……」
「そーですけど、なに……?」
「もしかして、お前が前にぐだぐだ話していた……絵描き、の」
「はい。つーか、ぐだぐだって……ホントひでーな」
「男、だったのか……」
緊迫しているのかしてないのか、いまいちわからないな。
なんだ、この若干緩い空気は。
礼二郎が腕に巻かれた包帯を口元に持って行く。それから肩を震わせる。
「……く、くふ……っ、ふはっ……ひひひひっ、ひひ……っ」
気色悪い笑い声、のようなものが暗がりで響く。
笑っているのだろうか。
一体、何故……。
礼二郎が震わせた背中を丸めて、俺たちから注意を反らしたその隙に、灯が飛び出した。
灯の前に弥凪が出てきて手を構える。
「おっと。刑事サンだから銃くらい持ってるんだよな? どっちが速いと思う?」
弥凪の切断の風を、灯が横に飛んで避ける。
避けられるのか、あれって。灯だから出来るんだろうな。冴えた勘と運動神経を持ち合わせていなければ不可能だ。
「ヒュー! まじかよ。でも礼二郎サンには近づけさせねーよ」
駆け寄る弥凪から距離をとろうと、灯がどんどん離れて病院の方に行く。
いきなり作戦が成立しなくなったな……それより、まだ笑い続けている礼二郎が不気味だ。
一体なんだというんだ。
「ひぃ……ひひっ……ふ、ひひひひ……っ」
途切れ途切れに響く不気味な笑い声を上げながら、礼二郎の手が服のポケットに入る。
まさか、向こうも銃を持っているのか。
俺も灯に持たされた銃の持ち手をコートの中で握りしめる。
しかし、礼二郎がポケットから取り出したのは、一枚の紙切れだった。
紙切れが夜風に晒されてひらひらとそよぐ。
「……真野、深月……やっと会えた……ひひひ……こんな、奇跡があるなんて……僕は、天に感謝します。ああ、貴方は……この子によく、似ている……僕の神よ」
礼二郎が持っている紙切れは、よく見ると古びた写真のようだ。
それが
暗くて遠くて、何が写っているのかよく見えない。
「見えます、か……?」
礼二郎がゆっくりと、正に幽霊のようにふらふらと近づいてくる。
まずい。距離を、とらないと。
でも、あの写真は、一体、なんだ……?
礼二郎との距離が四尺ほどになる。
風が止んだ。
夜の匂いが場に停滞する。
揺れを止めた写真の表が、俺を見る。
忘れなどするものか。これは、俺の絵だ。俺が中学生の時に賞を取った、俺の絵が初めて世界に評価されて受け入れられた時の、俺のオフィーリアだ。
絵の脇には紙で作られた花の飾りと、俺の名前がある。
何故、礼二郎がこの絵の写真を持っているんだ。
「やはり儀式は本物だった! 天なる父よ、僕は神さまを見つけました! ははは!」
こいつは、さっきから何を言っているんだ。
礼二郎のボロボロの包帯を巻いた手に、手を取られる。
これまで灯しか映していなかった灰色の瞳に、俺がはっきりと映る。
「僕の神よ……僕は、コンクールで貴方のオフィーリアを目にして、心を奪われました……僕は貴方のオフィーリアに、そう、強く、恋を、したのです……」
だから、こいつは一体何を言っているんだ。
「聞いてください、神よ。僕はオフィーリアを、再現しようと、懸命に部品を集めたん、です……まだここが、足りない、のに」
礼二郎のごつごつした細い指が絵の中の一点を指す。
「僕の目の前に貴方が現れた……僕の頑張りを、天は見ていらした……」
その絵は、両親を失った直後に描いたものだ。
黙っていてくれる死体の素晴らしさを知った俺が描いた、最初の一枚だ。
「僕はね、貴方のオフィーリアと一緒になりたい、んですよ……愛しているんです。こんなに美しい、のなら……死体がいい。生きている人間なんかよりも、死体の方がずっといい。ねぇ?」
なんだ。
灯じゃなかった。
この怪物を生み出したのは、俺だったのか。
口元に自然と安堵の笑みがこぼれる。
俺で、よかった。
ならば、こいつと対峙しなければならないのは、これを生み出した自分だ。
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