第43話 礼二郎といつかの夜

「やめてッ!! んぐ……っ」

 女性の悲鳴が一つだけ鳴り、すぐにくぐもった音だけになる。

 高い建物の間に出来た光の届かない袋小路の闇の中で、女の口を左手で塞いでいる男が、右手を拳にして女の腹を殴りつけた。

 男の拳が腹にめりこんだ女はビクンと身体を震わせ、バタつかせていた足を地面に投げ出してぐったりとした様子でいる。

 一度は重力に従いだらりと地面についていた腕が、この状況を打破しようと、しかし力なく男を退けようとして動く。

 その腕を、男の靴が思い切り踏んで再び地面へと押しつけた。

「ッ!!」

 声には出ない悲鳴を上げて、女は周囲に助けを求める。

 しかし周囲には女を組み敷いている男と、数メートル離れた場所から二人を眺めている男がいるだけだ。

 女は離れたところにいる男に悲壮な目を向けるが、男はそれを受け止めて尚、女に応えることはない。

 女の目が暗く濁る。

「おい、どうやって殺してほしい?」

「っ?!」

 口を塞がれているために、たとえ塞がれていなくとも、答えようのない問いを、男は下卑た笑みで女へと投げた。

「失血死がいいって? なるほど、わかった」

 女の口元に耳を寄せて声を聞き取るフリをした男は、指をまっすぐに揃えた右手を女の首に当てる。

 暗い中にあって見えてはいなくとも、首に何かが当たる感触に反応した女の喉が切羽詰まった音で悲鳴を上げようともがく。

「……ッ! ……!」

 男は笑みを崩さないまま無言で女の首に当てている手を離して、すっと横に引いた。

 目を見開き涙をこぼす女の首から、赤い液体がどんどん溢れて髪を汚し、洋服を染色して地面へと広がっていく。

 ピクピクと痙攣を繰り返していた女の身体が徐々に動かなくなっていき、瞬きを忘れた目の表面にたまっていた涙が一滴流れ落ちる。

 逃げ場を求める女の意思のように広がる赤い水の池に、男は酔いしれた。


 礼二郎はその作業を、ずっと見ていた。

 黙って男の行為を傍観し、それが終わる頃に間近に寄り、ここへ来てから初めて口を開く。

「……終わった、のか……?」

 作業について疑問に思ったことを、礼二郎は男に訊ねた。

 男の焦点の合わない虚ろな目が礼二郎を向く。

「はい。樋口様もいかがですか?」

 事切れている女を手で指し示す男に、礼二郎は緩く首を振る。礼二郎の色の無い髪が頭の動きで微かに揺れる。

「いや、いい……」

 礼二郎が断ると、男は上半身を畳むように倒した。

 男の行動に礼二郎は僅かに眉を寄せる。

 礼二郎は謝られたいわけではない。けれど彼らは礼二郎と意見を違えた時、常々こうした態度を取る。それが礼二郎には面白くないのだと思考出来ることもなく。

「……別に、気にしなくていい。……それで、終わったの……?」

「はい。満足しました。ありがとうございます」

「……」

 謝罪も感謝もいらないという礼二郎の本音に気付くことの出来ない男に、礼二郎は仕方のないことだと、心の中で諦めのため息を吐く。

 そこへ。

 駆けてくる足音が響く。

 二人の男は音の方へと顔を向ける。

「礼二郎サン!」

「……なんだ、弥凪、か……」

「なんだ、ってなんスか。酷いよなぁ」

「あまり……集団で固まるな、と言っているだろう……何しに、来たんだ……?」

 作業をしていた男が作業に戻り、女の身体を刻んでいく。

「ちょびっと相談なんですけどね、ソレ、もらってもいーですか?」

 地面に横たわる女性を顎で指しながら、弥凪が笑う。

 礼二郎には正ヶ峯弥凪という男が不思議でならなかった。

 作業をしている男のように、朱ゐ黎の人間は皆、礼二郎を『樋口様』と呼び淡々と会話をする。

 その中で弥凪だけは礼二郎を馴れ馴れしくも下の名前で呼び、媚びのない自然な笑顔で接していた。

 礼二郎にとって弥凪の存在はとにかく不思議なものだった。

「あまった部分、俺にも分けてください」

 弥凪の指が女性に向く。

 これからの楽しみを思って目を輝かせている弥凪に、礼二郎は小さく笑みを零す。

「……僕が楽しんだ後でいいなら、好きにするといい……」

「まじ?! やったね! さんきゅー礼二郎サン!」

 順番待ちが確定した弥凪は地べたに腰を下ろす。

「君……もういいよ……あとは僕が、やる……」

「はい。こちらをどうぞ」

 男から女性の腕の一部を受け取った礼二郎は、傍観者から執行者へと移る。

 礼二郎は、にやにやしながら自分たちを見ている弥凪の視線を気にしないように努めた。

 腕を切断されて横たわっている女性をのぞき込む形で屈んだ礼二郎は、包帯に覆われた自身の手を一度鼻先に持って行き深呼吸する。

 それから手のひらを女性の腹部に乗せた。

「穴を開けたい」

 礼二郎は力を込めていない。

 ただそう”願った”だけだ。

 それだけで、礼二郎の手の下から僅かに血が滲んで増えていく。

 血の勢いは疾うに失われているため、管に残っていたものが溢れ出ただけで大した量ではない。

 女性の血を吸った包帯を鼻にあてて、礼二郎は穏やかに笑んだ。



 目的を果たした礼二郎は、自分の乱れた衣服を整えながら、赤と白が混ざった体液で身体を汚している女性を恍惚の表情で眺める。

「礼二郎サンさ……それ気持ちいいの?」

 礼二郎が及んでいた行為について、弥凪が首を傾げている。

「ああ……とても……。僕は満足した、から、あとはあげるよ……」

 礼二郎と入れ替わりで、暗い瞳で星降る夜空を見上げ続けている女性に接近した弥凪は、ゴソゴソと鞄の中を探ってステンレスのスプーンを取り出す。

 衛生には気を遣っている弥凪の爪の短い指が女性の頬に触れる。次いで撫でるようにして手のひらが頬を滑り、頬を掴んだ指が顔をしっかりと固定する。

 見開かれたまま外気に晒され続けている眼球の淵にスプーンの先端がかかる。スプーンは上瞼と眼球の間に吸い込まれるようにして埋まっていく。

 ぷちぷちと、眼球を眼孔に留めていた筋肉を切断する音が、スプーンの柄を握る弥凪の手に伝わる。

 弥凪は指を動かして、眼孔に飲み込まれているスプーンの角度を傾けた。

 眼球が半分飛び出してくる。

 弥凪はスプーンをずらして眼球周りの筋肉や神経をことごとく切断していく。スプーンは上から下へと、眼球の周囲を半周した。

 ものを救って口に運ぶ動作と全く同じ手つきで、弥凪はスプーンを持ち上げる。

 多少の筋を引き連れながら、眼球は眼孔からスプーンの上へと引っ越しを完了した。

「……礼二郎サン、ところてん好き?」

「は?」

「あ、食べ物の方ね。それかぁ……ゼリーなんてどースか?」

 鼻歌でも歌いだしそうに上機嫌の弥凪は、鞄の中から出したポリ袋に眼球を落とす。

「……とろこてんより……ゼリー、の方が、いいな……」

「この女、礼二郎サンの好みでしょ? 特別にオスソワケします」

 にこにこと提案してくる弥凪に、礼二郎が向けたのは怪訝な目だった。

「…………お前が、作れる、のか……?」

「あれ? 言ってませんでしたっけ? オレ、料理がちょー得意なんですよ」

「…………」

 元々怪訝だった礼二郎の目に更に不審さが宿る。

「なんスか、その目! ひっでー……礼二郎サンになんてやっぱりやんない」

 弥凪はもう片方の眼球をスプーンで乱暴に抉り出して袋に投げ入れると、唇を尖らせて早歩きで去って行った。

「…………なんで……?」

 眼球ゼリーに興味のあった礼二郎は、去って行く弥凪の背中から横たわる女性の顔に視線を移す。

 孔の空いた漆黒の眼孔は、礼二郎と同じく疑問を空に投げかけていた。

 何故私は殺されなければならなかったのだろう、と。

 女性の頬に優しく手を添えた礼二郎は唇を重ねる。

「あと、少し……もう少しで、君に会える……楽しみ、だなぁ……」

 礼二郎は胸ポケットから一枚の写真を取り出す。写真は十年以上持ち歩かれたために淵が摩耗して古びている。その写真に、礼二郎はうっとりと頬ずりした。

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