第41話 深月と詩歩2

 そこはいつかの公園だった。

 なんという名前だったかな、ええと……さわやか公園だ。

 詩歩しほと出会って間もない頃に一緒に来た場所だ。

 あの時俺は、ここの滑り台の下のかまくらみたいな空間で犯行に及べそう、と考えて歩いていた。

 その公園に詩歩が堂々と入っていく。

 中規模で、照明は少なくて暗い公園だ。詩歩はもう夜が怖くないんだろうか。

真野まのさん、そこの滑り台の下だから、助けてあげて」

 ちょうど見ていたところを示されて、不思議に思いながらそこに向かうと、両手両足を縛られて気絶している男の子がいた。小学校低学年くらいだろうか。

「……生きてる、んだよな……?」

「うん。拘束解いて交番の近くに運んであげて」

「わかった」

 結び目、結構固いな。

 近くの交番って……どこだ……?

 町の中心部の方に戻るか。

「……詩歩、ここにいるんだよな……?」

「うん。待ってる。もう絶対逃げないから。今度こそ大丈夫」

 詩歩の言葉を信じよう。

 誰かをこんなに簡単に信じようとするなんて、俺も随分変わったな。

 俺をこんな風に変えてくれたのは、あかりと詩歩だ。


 男の子を交番の横あたりにそっと置いて、さわやか公園に戻る。

 詩歩は滑り台の降り口に座って待っていた。

 いや、座っているのは詩歩じゃない。詩歩は滑り台の影から出てきた。

「困ったわねぇ……わたくし、あの子の左足薬指を持っていかないといけないのに」

「どうしてこんなことするの……?」

 詩歩と会話をしている声の主を俺は知っている。

「……ゆず、さん……?」

 柚がこっちを向いて立ち上がる。

 柚はいつものように微笑んでいて、昼間大学で会った時と変わらない様子だ。

深月みつきさん? こんばんはぁ。こんなお時間にどうされたんですかぁ?」「……どうして、柚さんがここに……?」

「それを訊いているのはわたくしの方なんですよねぇ」

 詩歩が柚の正面に回って、華奢な両肩に手を置く。

「お願い、柚。ちゃんと話を聞いて」

「……そう。詩歩ちゃんが深月さんをここに呼んだのねぇ」

「そうだよ。私、見ちゃったんだ。しゅんくんにフられた後、夜遅くなって、それで柚を見かけて、柚が女の人の腕を……切ってるところを……」

 なんだって。

 それは、修復を初めて詩歩に見られた時の美しい死体ではないだろうか。

 あれは、柚がやったのか?

「そうだったのねぇ……詩歩ちゃんに見られていたなんて、気付かなかったわぁ」

「……教えてよ、柚。どうして柚がこんなことしてるの?」

「詩歩ちゃんこそ、どうしてここがわかったのぉ? あの子をそこに連れてきたのはわたくしではないのに」

「……弥凪やなぎくんが樋口ひぐちさんと話してたから、わかったの。柚が今日ここでやるって」

 ずっと微笑んでいた柚の顔から笑みが消えた。

「……詩歩ちゃん、まさか朱ゐ黎あかいくろに……?」

「柚のことが心配だったからだよ。柚を連れ戻さなきゃって、ずっと思ってて、でも怖くてなかなか切り出せなくてっ……ねぇ、柚、なんでこんなことしてるの……?!」

「……別に詩歩ちゃんが朱ゐ黎にならなくても、大学で言ってくれればよかったのに」

「言えないよ……もしかしたら柚じゃないかもしれないって思いたかったもん。柚はそんなことしてないって信じたかった。そうだったら、よかったのに」

「詩歩ちゃんは優しいねぇ」

「そうじゃないよ、柚。柚だって優しいでしょ? ずっと優しかった。優しい柚がどうしてこんなことしなきゃいけないの? 何か理由があるんだよね?」

 柚が何度か瞬きをする。

「詩歩ちゃんが知らないだけよぉ? わたくし小さい頃から、踏んだアリが醜くつぶれているのを見ても何も感じなかったわぁ。捕まえた蝶の羽をアスファルトに擦り付けてボロボロになる様を見てもどうとも思わなかったわねぇ。柔らかいハムスターを握った時のぐにゃっとした感触も、わたくしの手の中でもがく感覚も、小さい生き物がただ苦しんで死ぬだけ。わたくし、なんでも出来たのよ」

 詩歩が柚から一歩後退する。

「樋口様はそれを人間にやってみないかと誘ってくれてぇ、わたくしに不思議な力をくださったのぉ」

「不思議な力って、あの物を切る力のこと?」

「ええ。樋口様と同じ力よぉ? 詩歩ちゃんはいただけなかったのかしらぁ?」

 同じ力をもらった?

 他人に分け与えることの出来る能力なら、灯のものとはまた違う特異能力だな。

「……私には必要ない。柚は間違ってるよ。これ以上そっちに行かないで。柚は私の大事な親友だから、これ以上間違えてほしくない。柚、言ってくれたよね? 私がやろうとしていることを手伝ってくれるって。だったら私を手伝ってよ。私は残忍な犯罪者をひとりでも減らしたい。被害に遭う人をひとりでも減らしたいから」

「……わたくしは、詩歩ちゃんが無事ならそれでかまわないのよ。だから今すぐ家に帰って、朱ゐ黎あかいくろのことも今日のことも忘れて、明日大学で今まで通りわたくしに会ってくれれば、それで」

「そんなこと出来るわけないじゃん! 今ここで柚と一緒に帰って、柚も私と一緒に朱ゐ黎とは手を切るんだよ! それから、一緒に警察に行こうよ」

 詩歩は正しい。悪いことをしたのが親友でも見逃さない。自分でも誤魔化さない。

 その正しさが、俺には眩しい。俺も詩歩のようでありたい。俺なら詩歩が差し出した手をすぐに取るだろう。

 でも、柚の顔には疑問の色が濃く見える。

「……そんなことをすると、詩歩ちゃんはわたくしと一緒にはいられないのよ? どうしてそんなことが言えるの? 詩歩ちゃんはわたくしと一緒にいたくないのかしら?」

「そうじゃないよ、柚。私だって柚と一緒にいたいけど、それはダメなんだよ。わかるでしょ?」

「……私は詩歩ちゃんと一緒にいるために朱ゐ黎になったのに、詩歩ちゃんがそんなことを言うのは酷いわ」

「ちょっと待ってよ、私と一緒にいるためにって、どういうこと……?」

 柚から、何かを諦めて落としたようなため息がこぼれる。

「だって、そうでしょう? 樋口様はわたくしに選ぶ権利をくださったの。詩歩ちゃんが選ばれないように、わたくしは朱ゐ黎あかいくろになったのに……だから詩歩ちゃんも朱ゐ黎になったと思ったのに」

「わ、私は柚の目を覚ますために……」

 柚は詩歩のために朱ゐ黎に入ったのか。

 柚の話だと、殺人や損壊が好きなわけじゃないようだし、消したい相手がいたようでもない。

 たったひとりのために、そんな危ない橋を渡るなんて、俺には信じ難い。

「悲しいわ。わたくしが詩歩ちゃんと一緒にいたいと思っていた気持ちほど、詩歩ちゃんはわたくしのことを思っていなかったなんて」 

「そんなことない! それに、真野さんのことは? 柚、真野さんが好きなんだよね? 真野さんも柚には出頭してほしいって思ってるよ」

 柚の目に無言で見られる。

 その目が、これまで好きだと言ってつきまとってきた温度のものではなくて、ぞっとする。

 わかる。無駄だ。

 俺がなにを言おうと、きっとこの柚には響かない。

「…………」

「真野さんっ、なんか言ってあげてよ」

「……ふふふ……深月さんとの方が通じるなんて、やっぱり詩歩ちゃんはわたくしとは違うなぁ」

 ふらふらと笑いながら、柚がブランコの方に移動する。

「詩歩ちゃんはお友達が多くて、大切な人がたくさんで、後ろ向きなことなんて考えないから、わたくしや深月さんの気持ちなんて本当にはわからないのよ」

 俺もはじめはそう思っていた。

 でも、詩歩はずっと過去に捕らわれて生きてきた奴だ。後ろを向きながら前に進んできた奴なんだ。

 詩歩が柚が座るブランコに近づいていく。

「……柚、ごめんね。わかんなくて、ごめん。だから言ってよ。柚がつらいこと、私も知りたいんだ」

「そうねぇ……では、詩歩ちゃん。わたくし、深月さんのことなんて本当はなんとも思っていないのよ」

「え……?」

「深月さんのことが好きなのは詩歩ちゃんの方でしょう?」

「…………」

 そんなわけが、ないだろう。

 詩歩はどちらかというと俺のことが嫌いなはずだ。

「どうして、真野さんを好きなフリなんてしたの……?」

「詩歩ちゃんをとられたくなかったからよ? 詩歩ちゃんは恋人が出来ると、わたくしよりも恋人を優先させるでしょう?」

「それは、そうだけど……」

「詩歩ちゃんはわたくしの一番のお友達で、わたくしと一番一緒にいてくれないといけないのに」

 柚がブランコから降りて、ブランコの横で立ち止まっている詩歩の傍まで行く。

「ねぇ、詩歩ちゃん。わたくし、詩歩ちゃんと一緒にいたいだけなのよ」

 柚が詩歩を抱きしめて、詩歩も抱きしめ返す。

 わかりあえるんだろうか。

 柚の希望と詩歩の希望は噛み合わない。

 それでもわかりあえるのなら、その光景はなんて美しいんだろう。

 俺もこれまでよりもっと人間が好きになれる。

 その美しい景色を描きたいと思うかもしれない。

「でも詩歩ちゃんが同じ気持ちではないのなら、もう誰とも一緒にいられないようにしてもいいかしら?」

 柚が詩歩から離れるのと同時に、詩歩の身体がぐらりと傾いて倒れる。

「詩歩……?!」

「カット」

 柚の冷たい声が詩歩の左足を切断する。

「ああああああああああっ……!!」

 切り離した足を柚が持って走って行く。

 でも柚を追いかけている場合じゃない。

「詩歩っ!!」

 地面に伏せている詩歩に駆け寄って、身体を起こす。

「おいっ、大丈夫か?!」

「…………真野さ、ん……」

 詩歩の腹部が真っ赤に染まっている。

 一目見ただけで助からないとわかるような量だ。

 足の前にやられていたのか。

「……そ、そうだ、詩歩、携帯っ、救急車呼ばなきゃ……っ」

 詩歩のポケットを探ろうとする手が、詩歩の手に遮られる。

「い、い……」

「良くない! まだ間に合う……っ」

 きっと間に合わない。詩歩の顔からどんどん血の気が引いていくし、血もまだ流れてくる。これはもう駄目だ。

 それでも、ほんのわずかでもあるのなら、奇跡にすがりたい。

「……私も、ね……いつも、泣きながら、死体を治す真野さんに、勇気、もらってたよ……」

「は……? いいからもう喋るな」

「私、今度は、逃げなかったよ……」

「うん」

 でも、逃げてくれればよかったのに。

 そう思ってしまう。

「……真野さん、泣いてる……?」

「うん……」

 泣いてるよ。泣くに決まってるだろ。

 もっとわかりあえるかもしれないと思っていた詩歩と、こんな風に会えなくなるなんて、嫌だ。

 すごく嫌だ。

 やっと生きている人とうまくやっていけると思ったのに。

 詩歩がいなくなったら、悲しいし、寂しい。

 そりゃ、泣くだろ。

「……綺麗だなぁ……」

「……なにが……」

「初めて、真野さんを見た日ね……散々な日だったけど、真野さんの、泣いている顔が、すごく綺麗で……うん……一目惚れだったのは、柚じゃなくて、私の方……」

 やっとわかった。

 詩歩が綺麗だと言っていたのは死体のことじゃなかった。俺のことだったのか。だから最初から噛み合っていなかったんだ。俺と詩歩は。

 でも今更、だからなんだ。

 そんなことに気付けるよりも、詩歩に助かってほしいのに。

「真野さん……柚のこと……助けて、あげて……私は、だめだった……親友なのに、私じゃ、だめだったんだ……ごめんね、柚……」

 詩歩の手から力が抜ける。

「詩歩……?」

 返事がない。

 閉じられた詩歩の目尻から涙が流れてきたけど、それで終わりだ。それ以上流れてくることはない。

 色が失われていく。

 温度も、損なわれていく。

 俺が好きなものに、詩歩がなっていく。

 いや、違う。こんなもの、好きじゃない。

 詩歩は生きていてくれないと、嫌だ。生きている詩歩じゃないと、駄目だ。

「詩歩っ!」

 強く呼んでも詩歩は目を覚まさない。

 これは、もう死体だ。詩歩じゃない。

 俺は本当にどうしてしまったんだろう。

 あんなに好きで求めた死体なのに、涙が止まらない。感動じゃない。悲しくて仕方がない。

 こんな死体ならいらない。こんな死体は好きじゃない。

 生きている詩歩に会いたい。

 でもそれはもう叶わない。

 詩歩は死んでしまったんだから。

 俺に出来ることは、もうひとつしかない。

「……我は再造さいぞうし、修復する者……」

 浮かぶ。

 生前の詩歩が笑っている。怒っている顔も、困っている顔も、呆れている顔も、どんな表情だっていくらでも浮かぶ。

 よく知った詩歩が、俺の瞼の奥で生きている。

 だから白い紙の上に鉛筆を走らせる。

 俺が一番好きな詩歩の明るい笑顔を紙の上に描いていく。

 描いた線がぽつぽつと滲む。

 紙は薄く凹凸おうとつを描く。

 俺はどうして修復することしか出来ないんだ。

 どうして俺にあるのが、生きていてほしい人を甦らせる力じゃないんだろう。

 俺は結局、何も出来はしない。

 詩歩の身体を治しても、詩歩が戻ってくることはない。

 血にまみれた腹部も、血濡れの足の断面も、紙の上でなかったことにする。すべて綺麗に、修復していく。

 どうして死んでいるのかわからない詩歩の身体が地面に横たわっている。

 俺のこの力は、一体なんのためのものなのだろう。

「汝に正しいひつぎを与えよう」

 水を含んで窪む紙の上に、また新しい水がこぼれ落ちた。

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