第35話 二年前 灯の記憶
明日はお父さんの誕生日だから、仕事帰りのお姉ちゃんとバス停で待ち合わせて会う。
「
「う~ん……無難なのはネクタイかなぁ」
「柄は灯が選んでよ。自分はそういうの、センスの欠片もないから」
「そんなことないよ。お姉ちゃん、いっつも似合う服来てるもん」
ショートカットの髪に、高身長に映えるすらっとしたパンツスタイルが自慢のお姉ちゃん。こんなにかっこいいのに、センスがないなんて、妹のわたしにすら謙遜してくる。
そういうところも大好きだけれど。
「灯は優しいな」
お姉ちゃんの手がふわっと頭を撫でてくれる。
年が離れているからか、わたしが本当の妹じゃないからか、お姉ちゃんの手はいつも遠慮がちに触れてくる。
「……交番勤務はどうだ?」
「えっと……色んな人がいて、色々勉強になるよ」
「なめられてないか?」
「そういう人にはそういう人用の対応があるから大丈夫なの。お姉ちゃんだってわたしが強いの知ってるでしょ?」
「……そうだけど。あんまりやりすぎないようにな」
わたしじゃなくて相手の心配をするお姉ちゃんにちょっと文句を言いたい。でも言わない。今日は夜ご飯をおごってもらいたいから。
「お姉ちゃんは? 今やってる絵の修復大変? 最近帰り遅いみたいだし」
「……まあ……慎重にやらなきゃいけないから、時間がかかるんだよ」
「ごはん、ちゃんと食べてる? ただでさえお姉ちゃんは食が細いんだから」
「はいはい。大丈夫だよ。食べてるから」
「パウチのゼリーはごはんにカウントしないよ?」
「うん。夕食はちゃんと食べてるだろ? それにあのゼリー美味しいんだよ」
「……美味しいの?」
「うん。今度灯も食べてみなよ。いや、飲んでみなよ?」
「ふふ、わかった」
あの栄養を摂るためだけみたいなゼリー、美味しいんだ。すごく気になる。早速明日買って飲んでみようかな。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なんだ?」
「今度お姉ちゃんの絵、見に行っていい?」
「いいけど……自分の絵じゃなくて、自分が修復した絵な」
「うん。完成したら教えてね」
「いいよ」
服屋さんに着いて、ぱっと決めた柄をお姉ちゃんに見せる。
「いいの選んだな」
「うん」
お姉ちゃんがネクタイを買ってくれて、一緒に服屋さんを出る。
「灯、夜ごはんどこかで食べて行こうか」
「いいの?」
「灯がいいプレゼントを選んでくれたから、ご馳走するよ」
「やったあ! じゃあ、サンドイッチ屋さんがいい」
「また新しい店発掘したのか?」
「お姉ちゃんも絶対に気に入ると思うの! ジャムとかフルーツ系もあるんだけど、おかず系が充実しててすごいんだから。エビチリとか麻婆豆腐とか、酢豚とか」
「なんで中華……?」
「わかんない。でも美味しいからなんでもいいの」
お姉ちゃんの手を引っ張って、最近見つけたサンドイッチ専門店を目指す。
サンドイッチ専門店の前に着く頃、お姉ちゃんの携帯電話が鳴る。
「仕事の電話だ。ごめん、先に入ってて」
「うん。わかった」
お姉ちゃんとお店の横で別れて、先にお店に入る。
店員に席に案内されて、メニュー表を開く。
今日はどれにしようかな。
十分くらい経った。
まだかな。遅いな。
また十分くらい経った。
お姉ちゃんが来ない。
携帯電話に連絡もない。
流石に遅すぎると思う。仕事に行ったんなら、わたしに何か言ってから行くだろうし。
お店の人に、連れが来ないから一旦様子を見に行ってきます、と言ってお店を出る。
出入り口付近に人はいない。
辺りをきょろきょろと見渡すけど、人がいない。
見える範囲にいないなら、もう少し捜索範囲を広げよう。
お店の横に回って、裏も見に行く。
誰もいない。
電話をするだけでそんなに遠くに行くかな。
来た道をちょっと戻ってみよう。
それでもお姉ちゃんはいない。
もっと戻る。
いない。
駆け足で本屋の角を曲がる。
いない。
お姉ちゃんが隠れて、探しているわたしを笑っているのかもしれない。立ち止まって周囲を見回す。
いない。それに、お姉ちゃんはそんなことをするような人じゃない。
どこにもいない。
息が上がって苦しい。それでも探さなきゃ。胸騒ぎがする。
こんなに探してもいないなんて、絶対におかしい。
サンドイッチ屋さんに戻ろう。
もしもお互いにお互いを探しているのなら、動き回らない方がいい。お店を出てからかなり時間が経っているけど、戻ろう。もしかするとお姉ちゃんはお店の中で待っているかもしれない。
歩いている途中で、何かの音がした。
サンドイッチ専門店の二軒手前にある暗い建物の隙間から、音がする。
なんだろう。
音がした暗い方をのぞき込むと、お姉ちゃんの光を失った冥い瞳と正面から向き合ってしまった。
「…………え…………?」
「……っ、……んぐ……っ……ん……?」
お姉ちゃんにしがみつくように顔を埋めていた人の白い髪が揺れる。
男はお姉ちゃんの手を持っていて、口元は赤いものだらけでべったりと汚れていて、何を、していたんだろう。
お姉ちゃんの手が、体から離れすぎている。
どうしよう。なにが、起きているんだろう。
走らなきゃ。
だめ。お姉ちゃんを置いていったら、だめ。
正反対の命令を体と頭が出してくるせいで、足が動かない。
「……君、かわいいね……」
白い髪の毛先を赤く染めた男が、ギラついた目で立ち上がる。
白い男が支えていた身体が傾いて地に崩れ落ちる。
力なく倒れたお姉ちゃんの身体は、さっき一緒に歩いていたものとは変わってしまっている。
わたしの頭を優しく撫でてくれたお姉ちゃんの右手がない。
自分より歩幅の狭いわたしを気遣って歩調を合わせて運んでいた左の足がない。
わたしと話す時に必ず向けてくれていた顔の中にあったはずの左目がない。
スポーツが好きで日焼けしていた首には、なかったはずの真っ赤な血が広がっている。
白い男が近づいてくる。
頭の中が真っ白になる。
手を伸ばせば届く距離まで来た白い男に、倒れるようにして抱きしめられる。
「っ?!」
強い力で抱きしめられて、逃げなきゃ、と思うのに、動けない。
男が唇を深く重ねてくる。
「んっ、んんっ」
初対面の人間からの唐突すぎる接触に嫌悪感を覚える。深く合わせられている唇から逃れようと頭を横に向けた。
「っ、ぷは……っ」
すぐに男の腕の中から脱出しようともがくが、男は細身の割に力があるようで簡単に地面に押しつけられてしまう。
こんなの、いつもならはねのけられるのに。
「……そんなに嫌? 僕のことが、そんなに嫌なの……?」
十センチも距離がないほど顔を近づけてくる男の吐息が鼻にかかる。
「や……」
わたしの拒絶の言葉が終わらないうちに、スカートの中に手を入れてた男にパンツをずり下ろされる。
「なっ、なにす」
男が赤い歯を見せて笑った。
気がつくと、目の前のお姉ちゃんの身体が色んなところにあって、どれも動く気配がない。
「…………お姉ちゃん……?」
お姉ちゃんの顔に近寄る。
「お姉ちゃん……っ、どうして……っ」
喉が詰まったみたいに声が出ない。
気道が熱くて、それを冷まそうとするかのように目から水があふれてくる。
許せない。
わたしはお姉ちゃんをこんな風にしたあの男を絶対に許さない。
どこまでも追いかけて、わたしからお姉ちゃんを奪った罪を償わせてやる。
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