第33話 心の修復

 走って玄関を出たが、辺りが暗くてはっきりとは見えない。目を凝らしても、付近に人影はありそうにない。

 すぐに理科室の窓の方に向かわないと。

 でも、またあかりに腕を捕まれる。

「灯……?」

「静かに」

 灯が耳に手を添えて、地面を目で追う。

 灯に腕を捕まれたまま、耳元で囁かれる。

「……こっちです」

 灯は、今出てきたばかりの校内に入ってそっと歩き出した。

「……外ではなく、中から足音が聞こえます」

 そうか。出て行ったフリをしてまた中に戻ったんだな。

 危うく学校を離れるところだった。

「二階の明かりがついていた教室……まだ明かりがついたままです。そちらに向かいます」

「わかった」

 廊下の中央にある階段を上って二階に足を踏み入れる。

 先を歩く灯が銃を構えながら、明かりのついた部屋の戸を一気に開けた。

 机も椅子もない教室の真ん中での光景に、思わず足が前に出る。

 この場所の主役は白髪の男と少女だ。

 白髪の男が揺れる度に、男に組み敷かれている女の子も大きく揺れる。

 白髪の男は気色の悪い息を荒く吐く。

「はぁ……は……っ……いい……きみ、いいよ……っ」

 暖色のない女の子の右足は、膝から下がない。

 声を上げることの出来ない女の子の口はだらりと開いたままだ。

 力なく床に投げ出された腕の左側はない。

 戸が開かれた音に、白髪の男がゆっくりとこちらを向く。

 幽霊のようだ。

 落ちくぼんだ目も、真っ白い肌の中で唯一浅黒い目の周りも、せた頬も、この明るい空間にはひどく似つかわしくないものに思える。白髪だが、皮膚を見るかぎりそんなに年を重ねていないだろうことがわかる。

 幽霊のような男が動きを止めて、血の付いた包帯の腕を鼻元に持って行く。

 ガタンッ。

 背後から大きな音がして振り向く。

 灯が腰を抜かして戸にしがみついていた。

「灯……?!」

 呼吸が怪しい灯の傍に急いで屈んで、灯の肩を抱く。

「灯っ、どうした?!」

 灯は頭を抱え込んで応えない。

「灯?!」

 教室の中から人が動く気配が薄くする。

「………………ああ、きみ……そうだ……きみ……あの時の……僕のお人形さん……」

 幽霊のような男がゆっくりと近づいてくる。

「……ねぇ……僕のこと……覚えてる……? きみの初めてを味わった時のこと……僕はよぉく覚えてるんだ……君がいっぱい締め付けてくるからすごくキツくて……痛い痛いって泣き叫んでくれるから……最高に気持ちよかったなぁ……」

 なんだこいつ。妄想の中で生きてるんだろうか。

「おい……何を言って……」

 灯が頭を横に振る。

「……やだ……っ」

「君のお姉さんも……美味しかったなぁ……」

「っ……」

 灯は言っていた。二年前に姉が空葉町からはまちで食人された、と。

 それじゃあ、こいつがその犯人ということか。

礼二郎れいじろうサン、そろそろ帰りましょ……って、また深月みつきちゃんかよ!」

 弥凪やなぎが教室の反対側の戸口にやってきた。

「詩歩ちゃん置いて来ちゃったし、サイアク」

「弥凪……僕はあの子が欲しい……あの子は僕のものなんだ……」

 礼二郎と呼ばれた男が灯を指さす。

 礼二郎の指線から灯を守るように抱え込む。

「……あれ~? 刑事サン、どうしたの? ……アハハハ! なんかわかんないけど敵になんねーじゃん。行きますよ、礼二郎サン」

「だから……僕はあの子を」

「ハイハイ。また今度にしましょうよ」

 教室の真ん中で色も表情も失くした少女が俺を見る。

 私はどうしてこんな目にあっているの、という疑問が、ぼんやりとした目から伝わってくる。

「……おい、待て」

「何? 詩歩ちゃんならもう深月ちゃんのところには戻らないよ」

「お前は今はどうでもいい。お前」

 礼二郎に憤りの視線を引く。

「…………僕になにか……?」

「その子をそんな姿にしたのはお前か?」

「そうだよ……それがなに……?」

「……ふざけるな……っ」

 許せない。

 死体をあんな風に傷つけたことが許せない。

 死体に淫らな行為をしていたことも許せない。

 死体は綺麗で、触れてはならない神聖なものなのに。

「俺は、お前を許さない……!」

 礼二郎の前に出てきた弥凪に、手を向けられる。

「許さないからなんだってんだか。深月ちゃんさぁ、わかってる? 俺はいつでも深月ちゃんのコト、傷物に出来るんだよ」

 悪寒が走る。

「切れ」

 弥凪の声と同時に右足に衝撃を受け、思わず膝をつく。

「……っ」

 床に、ポタポタと血がしたたる。

 切断されはしなかったが、刃物で切りつけられるのと同じ痛みが、膝の下にある。

「今のうち今のうち~」

 弥凪が、動かない少女を抱えた礼二郎を押して教室から出て行く。

「待て……っ」

 無傷の二人に追いつくのは難しいだろう。

 それに、動けずにいる灯をここに置いては行けない。

「……灯! どうしたんだよ……!?」

 廊下でうずくまる灯の肩を抱えて体を起こすと、本物の人形のように灯の頭がカクンと斜め後ろに倒れる。

 感情の何もない目が天井を見上げている。

 灯はいつも感情の読めない目をしていたけれど、今は目に写る感情が何もない。

 それに気付いた時、目の前が真っ白になった。


 映像がフラッシュバックする。

 明るく笑う灯と、灯とは似ていない大人びた女性が一緒に町を歩いている。

 次の場面。大人びた女性の切り離された腕にかじりつく礼二郎の、艶のない前髪から覗く鮮やかな瞳が、灯を見ている。

 次の場面。薄ら笑いを浮かべる礼二郎が灯の両手を押さえつけて、灯の体の上に跨がっている。

 次の場面。礼二郎の下で灯が泣いている。水をかぶったみたいな灯の目が、横にある女性の腕を見ている。それは灯が手を伸ばしても届かない。


「……っ……う……っ!」

 脳を筆でかき回されたように目が回る。

 すぎた……!!

「うぇ……っ、げほっ」

 気持ち悪い。胃がひっくり返りそうで、中のものを床にぶちまける。

「……はぁ……は……っ……」

 俺は、今、何を、視た……?

 気持ち悪い。

 これは、なんだ。

 この不快感は。この喪失感は。この怒りは。

 これは、誰の感情だ。

 落ち着け。これは俺の感情じゃない。俺はあんな場面知らない。

 なら、あれは灯の記憶だ。

 でも俺に視えるのは死体の生前の姿のはずだ。

 灯は生きている。

 なら、あれはなんなのか。

 空っぽの表情の灯から涙がこぼれる。

 ……ああ、そうか。灯の心はあの日から、バラバラに壊された死体と同じだったんだ。だから俺には灯の生前の心が視えた。

 だから俺は初めて会ったあの時、灯に惹かれたのか。

 だから俺だったんだ。

 灯の心の中の損壊している部分を修復できるのは俺だ。俺にならそれが出来る。

 イメージしろ。

 あの大人びた女性が灯の姉だ。彼女の損壊された死体は灯の記憶で視た。彼女の生前が、俺には視えるはずだ。

 視ろ。

「うっ、げぇ……っ、ごふっ……!」

 視界がぼやける。

 目の前がチカチカして、頭がズキズキ痛む。

 もう何も見えない。

 視たいものは、何も見えない。

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