第26話 職人


 昨夜舟木ふなきがたばこを吸っていた公園に走る。

 小さな公園だ。トイレ付近に照明がひとつあるだけで薄暗い。

 トイレの中以外に人が入れそうな場所はない。

 詩歩しほはどこにもいなかった。

 ここじゃない。


 平塚家ひらつかけと舟木のアパートの間には空葉からはルーテル学院大学がある。次はそこへ行こう。

 息を切らして走る。

 足が思うように前に進まない。でも急がなきゃいけない。

 鼓動がざわつく。

 しんと静まりかえった夜の町に、自分の足音がうるさい。

 それでも走る。

 大学が見えてきた。

 暗い。人の気配はない。

 門にはめ込まれた柵を揺するが、鍵がかかっていて開きそうにない。

 中に入るには柵をなんとか越えて侵入するしかないが……はたして大学の中に人がいるだろうか。

 窓からの明かりはどこにもなく、出入り口はここしかない。

 もし、詩歩が何らかの事件に巻き込まれているのなら、こんなに侵入も脱出もしにくい場所にいるだろうか。

 ここじゃない。


 あてもなく詩歩の家の方角に向かって走る。

 最早走っているのか、急いで歩いているのかもわからない有様だが、建物の間や暗い場所を重点的に探す。

 その途中で、何度も見かけた暗い看板が目に入る。

 エウテルペの都。

 その中から、物音が聞こえた気がした。

 扉をそっと引くと、さほど力を入れなくても開いた。鍵はかかっていないのか。

 暗い店内は、昼間のゆったりとした明るさとは打って変わって、不気味さが濃い。

 荒い呼吸を押さえようと口元に手のひらを当てる。

 何かのにおいがする。飲食店なんだから別段おかしなことはない。

 厨房の方から仄かな明かりが漏れている。誰かがいる。店員だろうか。

 勝手に入って怒られるかもしれない。

 でも。

 胃の上のざわつきが消えない。

 ダンッ!!

 大きな音がして、息が詰まる。ちょっと普通の音じゃない。異様だ。

 厨房で一体なにをしているんだろう。

 足音を立てないようにゆっくり歩いて、おそるおそる厨房をのぞき込む。

 その光景に、呼吸を忘れた。


 黄色がかった穏やかな光に照らされた調理台に、鮮やかな赤い色と、折れ曲がった細い大根のようなものがある。

 大根のようなものの先は四本に分かれていて長さは揃っていない。

 足りない一本を、調理台の前に立つ男が持っている。

 男は左手の親指と人差し指でつまんだそれをじっと見つめる。手首を返して、横から裏から、様々な角度から凝視している。

 男の横顔が笑う。それはそれは楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに笑った。

 調理台の奥で別の赤が揺らめく。だいだいに近い赤の上に黒いフライパンがあって、男が宝物みたいに持っていたものをそこに転がす。

 パチパチと音が弾ける。

 男がフライパンを振る度に、中のものが跳ねて踊る。

 ジュージューと香ばしい音が立つ。

 上機嫌の鼻歌と上出来の焼音がいびつなハーモニーを奏でる。

 男が高い位置からなにかをパラパラといている。

 男の、フライパンを持っていない方の手が後ろに伸び、天袋から白い皿を出す。

 フライパンの中で色を変えたものが、男の手によって皿に移された。


 なんだ、あれは。

 あれは大根ではない。

 あれは野菜なんかじゃない。

 あれは、誰の、何だ。

 喉の奥からこみ上げるものを飲み込む。

 ふらついた拍子に近くの椅子に手を掛けてしまった。

 椅子が動いて軋む音を立てる。

 男と目が合う。

「……あっれ~? 深月みつきちゃん? そんなとこでなにしてんの?」

 弥凪やなぎの口元が笑う。

 俺は笑い返せない。

「……あ……お前……それ……」

「ん? もしかして見てた?」

「……」

「あっはっはっは。そっか、見たんだ。でもちょっと待ってね。仕上げのソース作るから」

 弥凪は昼間と変わらない笑顔で俺に言葉を投げかけてくる。

 その顔が状況とちぐはぐで、現実感がなくなっていく。

 考えたくない。

 誰の何がそこにあるかなんて。

「……やっぱり深月ちゃんも興味ある……? う~ん……どうしよっかな……特別の特別で分けてあげよっか?」

「……な、にを……?」

 カスカスの声がかろうじて喉から出た。

「わかってるくせに。深月ちゃんだから特別だよ」

 弥凪に差し出されたフォークを払い落とす。

「お前……それ……詩歩じゃ、ないよな……?!」

 怖い。そうだったらどうなる。詩歩はどこにいるんだ。

 弥凪の眉が上がる。

「えっ? それはぁ……どうでしょ。ははっ」

「お前……っ」

 頭が締め付けられるように熱くて、目の前の男の白い服を掴んで壁に叩きつける。

「詩歩はどこだ?!」

「……知らねー。つーか、深月ちゃんなんでそんなに怒ってんの? 怒ってる顔もかわいいけどさ」

「ふざけるな!」

「オレはいつでも大真面目なんだけどな。で? 深月ちゃん、それ食わねーの? 冷めたらもったいないからオレもらっていい?」

「いいわけあるか!」

 弥凪が大げさにため息を吐いた。

「……残念だわ。深月ちゃんなら一緒に楽しめると思ったんだけどなー。なに? オレの勘違いだったってワケ?」

 何を言っているんだ、こいつは。

 弥凪の顔が近づいて、耳元で止まる。

「深月ちゃんさ、コッチ側の人間でしょ?」

 全力で突き飛ばした。

 違う、俺は違う。

 こいつとは、違う。

 弥凪が俺の脇を抜けて走り去る。

「待て……っ!」

 追いかけて厨房を出るが、弥凪の姿は既になかった。

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