第18話 エウテルペの都1

 困った。

 平塚さんと仲直りしようと思って大学まで行ったのに、平塚さんには会えたのに、何故かなにも変化のないまま、俺は今いつもの画廊前にいる。

 描く準備だけが整っている絵も進まない。白いキャンバス地とにらみ合って小一時間経過した。

 もう一度大学に行こうか……すごく行きたくない。

 どうしよう。

「……はぁ……」

 ため息と同時くらいに、キャンバスに影が落ちる。

 顔を上げると、視線を落とした平塚さんがいた。

「あ……」

 俺が漏らした声につられるように、平塚さんの視線が俺を向く。

 そこには、思っていたような嫌悪の色はなかった。

「これが、真野さんの絵?」

「そうだけど……」

「綺麗……」

「え……?」

 平塚さんの口から肯定的な言葉が出てくるなんて微塵も思っていなかった。

 平塚さんが見ていたのは、昨日まで描いていた空と木々の絵だ。

「真野さんって、こんなに綺麗な絵を描くんだ……」

 正直なのか、思っていることが全部声に出ている。平塚さんは俺のことが嫌いだ。なのに、俺の絵は素直に褒めてくれている。

 それが恥ずかしいような、痒いような、居心地の悪さを感じる。

「……ねぇ、さっき私に話があるって言ってたよね」

「……言った」

「私も、ちょっと一方的だったかなって思って……柚は真野さんのこと好きとか言い出すし……私も真野さんのこと知らないままじゃ、柚のこと任せられないし……」

 灯に言われてきたのかと思ったけど、そうでもないらしい。

 きちんと話すのならこんなところじゃなんだな。どこか話せるようなところは……。

「……真野さん、お昼まだ?」

「え、ああ」

 ごはんを食べるところと言えば、今度来てと誘われた店があるじゃないか。

「すぐそこに知り合いがいる店があるんだ」

「じゃあそこに行こう。あ、真野さん、仕事は大丈夫?」

「ああ。ノルマもなにもないから」

 休憩の時程度に道具をまとめて、店の方に歩き出す。

「いつもここで絵を描いてるの?」

「まあ……大体は。別の景色を探して移動することもあるけど」

「ふーん……綺麗な絵を描くからびっくりした。もっと禍々しくて毒々しい絵なんだとばっかり」

「俺は綺麗なものが好きなんだよ」

「はいはい。確かに……修復の時の絵も綺麗だよね」

「…………」

 生姜くんが言っていた角を曲がる。

「ねぇ、真野さん、食事の趣味は普通なんだよね……?」

「食事の趣味は、ってなんだよ……」

「自分が一番よくわかってるクセに」

 嫌味ったらしく言葉を投げつけてくる平塚さんに特に言い返せる言葉もない。そんな自分を残念に思う間もなく目的の場所に着いてしまった。

 木目のドアには小さなステンドグラスがはめ込まれている。ドアの上に、『エウテルペの都』という個性的な文字の看板がある。ここで間違いないな。

「ここ、俺の絵の常連がいる店なんだ。俺も来るのははじめてだが……」

「へぇ、真野さんの絵の……」

 真っ黒なアイアンの取っ手を引いて、店内に入った。


 初めての店に入った途端、知った顔と目が合ってほっとする。

「いらっしゃいませ~! およ? みつき月ちゃん?! 何々? どーしたの

?!」

 その見知った顔の奴が騒々しく寄ってくるものだから、一歩後退してしまう。背後にいる平塚さんに当たってしまい、迷惑そうな顔をされた。

「どうしたのって……食べに来たんだけど……」

「えっ、マジ?! ちょっと待ってて、メニュー取ってくる! 適当に座ってて!」

 弥凪やなぎはわたわたと厨房の横に引っ込む。

 直後、ちゃんと接客しろ、というおそらく店長の笑い混じりの注意が聞こえてくる。

 平塚さんが窓際の席についたから、俺も同じ席の対面に座る。

 苦笑いで戻ってきた弥凪が接客用の満面の笑みを見せた。

「はいはーい、お待たせしました~! ラッキーですね、お客サン。今丁度ガラッガラの時間帯なんですわ!」

 弥凪にメニュー表を手渡される。

「あはは、閑古鳥の鳴くお店かと思っちゃった」

「嫌だな~、夕食時なんて予約しないと入れないんで有名なんだけど」

 座って落ち着いたところで、店内を見回す。

 白を基調とした壁や家具、天井や窓の上から吊された植物の葉や蔦、暖色の照明で照らされた柔らかい雰囲気の室内。店内は落ち着く内装が施されている。

 弥凪曰く空いている時間帯なので、客は俺たち二人だけだ。

「深月ちゃん、このコ、もしかして彼女?」

 弥凪は指を平塚さんに、顔は俺に向けて首を傾げる。

 そんな弥凪に食ってかかったのはやはり平塚さんが先だ。

「冗談じゃない! こんな人と恋人にしないで!」

 まあ……恋人じゃないけど、なにもそんなに嫌がらなくても……。

「あー、やっぱり? 深月ちゃんに彼女なんているわけないよね~」

 こいつ、いつか顔に芸術が爆発したようないたずらでも描いてやろうか。

「だよね~。真野さんなんて一生恋人出来っこないって」

 弥凪と平塚さんが笑い合う。

「ええ~? いやいや、オレにとってはチャンスだよ。オレね、深月ちゃんの事狙ってるから」

「は?」

 平塚さんの笑いが止まって、空気が変な風になった。

 だよな。俺もそう思う。

「で? 彼女じゃないならなんなの?」

 そこで、平塚さんと弥凪はお互いの名前も知らないという事に気付いた。

「ああ、ごめん。こちら平塚詩歩さん。で、こっちが生姜しょうがくん」

「生姜……?」

「詩歩ちゃんも生姜って呼んでくれていいよー。その方が親しみやすいでしょ?」

「は、はぁ。生姜さんって変な人だね」

「そ? ありがと」

「あはは、褒めてないから」

「何言ってんの。芸術家たる者、奇人変人扱いされてこそでしょーが。ね、深月ちゃん」

 ずばずばと物を言う平塚さんにも、弥凪はいつものようにニコニコと対応している。

「真野さんはともかく、生姜さんって芸術家なの?」

「料理人だもん、オレ。それはそうとメニューどうぞ。ここ創作料理のお店だから、わかんない料理とかあったらなんでも訊いてね」

 平塚さんの意識はもうメニュー表の料理に移っている。

「おすすめはどの料理なの?」

「本日のおすすめは、豆腐の油揚げ包み洋風あんかけで~す」

「じゃあ、わたしそれにする」

「俺もそれで」

「かしこまりました! 迸るオレのスーパー芸術性を見せつけてあげるから、少々お待ちくださ~い」

「あはは」

 弥凪がいなくなったから、いつの間にかテーブルに置かれていた水を飲む。

 さて、どうやって切り出そう。

 水を飲むことで間を埋めていると、平塚さんが小声で話しかけてくる。

「真野さん、あの人と付き合ってるの?」

「ぶはっ」

 漫画のように口から吹き出された水が白いテーブルと俺の服の上に落ちる。

「うわっ、汚っ」

 慌ててテーブルに備え付けのティッシュであちこちを拭く。

「平塚さんが突拍子もないことを言うから……っ」

「え~、だって、仲良さそうだったし、気持ち悪いくらい好かれてたし」

「あれは冗談だから早く忘れた方がいい」

「そうかなぁ?」

 さて、料理が出来上がってくるまでの間、本来の目的を果たさなければならない。

「平塚さん」

 店内を観察していた平塚さんの視線が俺を向く。

「俺のことは嫌いでも構わない。平塚さんが俺と組みたくないと言うなら灯になんとかしてもらうように言う……ええと、だから捜査には協力してほしいというか……」

 平塚さんは黙って、いまいち要領を得ない俺の話を聞いてくれている。

「それでもやっぱり嫌だって言うんなら俺には平塚さんを止める権限はないから仕方ないと思うけど……」

「真野さん、私、今夜からはまたちゃんと行くよ」

 きっぱりと言い切った平塚さんの顔をまじまじと見てしまう。

「昨日は途中で投げ出しちゃってごめんなさい。真野さんの好きなもののことは、きっと私には理解できないんだと思う」

「……まあ、理解されようとは、思ってない……」

「うん。もうね、ごちゃごちゃ考えるのやめた。私の感情がどうであろうと私にしか出来ないことがあって、多分ここで放り出したら後でものすごく後悔すると思ったから」

 平塚さんはどこか吹っ切れたような笑顔を見せた。

 そうか。彼女はこんな風に明るく笑う子なのか。知らなかった。

「死体なんて怖くて怖くて嫌だし、その気持ちは変えられないけど、友達とか家族に被害者になってほしくないし、なによりそういう事をする人たちが許せないから。事件を止めたいって思いはちゃんとあるから」

 昨夜も平塚さんはそう言っていた。

 俺なんかと違って、平塚さんは正義のために協力するのだ、と。

「平塚さんの、そういう気持ちは……立派だと思う」

「うん。私も立派な自分でいたい」

 俺は確かに、普通の女の子の嫌いなものや怖いものに対して理解がないと思う。だから平塚さんの死体が怖いという感情も理解出来ない。それは今も変わらない。

「さっき真野さんの絵を見て思ったんだ。心の綺麗な人なんだろうなって。だから、真野さんが好きなものを綺麗だって思う心はきっと純粋で、それを壊す人を許せないっていう気持ちも本物なんだと思う。犯人扱いしてごめんなさい。真野さんに失礼なこといっぱい言ったのは謝る」

「……いや……そもそも、俺が悪かったんだ……」

 我慢できなかった俺が悪い。そんなことははじめからわかっていた。

「俺もきちんと謝罪していなかった。ごめん」

「もういいよ」

 いいのか。わりととんでもないことをしたと思うんだけど。

「柚が真野さんに一目惚れしたって言ってたけど、私は真野さんの絵に一目惚れしたんだ。だからもういい」

 まっすぐな目でそう言われて、顔が熱くなる。

 照れくさくて、恥ずかしくて、話を逸らしたい。

「平塚さん、」

「詩歩でいいよ」

「いいのか……?」

「うん」

「じゃあ、詩歩、さん」

「さんもいらない。私真野さんより年下だし」

「……詩歩」

「うん」

「えっと……詩歩は、この町の人間なんだよな?」

「うん。そうだよ。生まれも育ちも空葉町からはまち

「じゃあ、事件が起きているのは知ってたんだよな?」

「う、うん。もしかして、まだ気にしてる? あの夜、私みたいな怖がりが夜出歩いてたこと」

「ああ」

 詩歩はちょっとだけ黙って、目線だけ俺に向ける。

「もういっか。あの日ね、彼氏にフレれて、すっごい泣いたからすぐには家に帰れなくて……」

「そうだったのか……」

 それこそ、俺には理解できない感情だ。

 詩歩がちょっと首を反らして厨房の方を見る。

「あんな感じだったな……」

「え?」

「元カレ。すっごい気さくで、ぐいぐいひっぱてくれて……」

 なんか色々あったんだろうな。わからないけど。

 改めて、俺とは住む世界が違うんだろうなと思う。自然と目が細くなる。

「ねぇ」

「はい」

「真野さんって、柚のことどう思ってるの?」

「はい? どうって、別にどうも」

「はぁ……やっぱり……ねぇ、柚ってすっごくいい子だから、今度もっときちんと話してみない?」

「俺が? いや、俺はそういうのはいい……」

「ええ~? そう言わずに」

 弥凪が、湯気を立てた皿を持ってやってくる。

「はいはい、お待ちどーちゃん! 当店おすすめの『三種のフライ盛り特製ソースがけ』でーす!」

 え、さっきとメニュー違わない?

「本日のフライは、豆腐、鶏肉、タラをメインに、衣は油揚げを使用しておりまーす」

 あ、中身は嘘ついてないな。

「すっごい綺麗! アスパラとパプリカで彩りいいね!」

 詩歩のテンションが上がっている。

「どうも~。では、ごゆっくりどーぞ」

 軽やかなお辞儀を落として、弥凪は厨房に引っ込んで行った。

 詳しいことはよくわからないけど、料理はとても美味しくて、明日も同じメニューでいいかもしれないと思った。

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