第9話 灯の動機
深夜二十二時。
昨日も待ち合わせた画廊前で
俺は、やっぱり昨日のことがなんとも気まずい上に、昼間のこともあってどうしても灯という存在を意識せずにはいられない。
半歩後ろを歩く灯の衣擦れの音だとか、歩を進める度に視界にちらちら入る揺れる長い髪の先だとか、気になって仕方がない。
ほぼとなりにいる灯の姿を見なくても、昨日の夜の事を思い出してしまうには十分な要素が満載で、俺の心臓は正直いつまでもつかわからないくらいうるさい。
「
そう囁くように灯が言うものだから、ほとんど反射的に距離を取る。
「へっ?! や、もういい、もうあんな事してくれなくていいからっ」
「……死体の事を訊いているんですけど」
「………………うわっ……死にたい……」
思っていたよりも低い体温に少し驚いて顔を上げると、手の平の温度と反比例したような微笑みに迎えられた。
「落ち着いて下さい。それで、死体はありそうですか?」
灯は、忘れたという言葉通りにしっかりと忘れたフリをしてくれている。なのに、それを望んだ俺がぶり返してどうするんだ。
「う…………今日はいない、と思う」
「これから出る可能性まではわかりませんよね?」
「わからない。けど、今日は多分待っていてもいないような気はする」
「そうですか……。自分はこの件に関しては貴方の勘を全面的に信用しています。もう少し歩いたら今日は解散しましょうか」
死体が出ない事はいい事だ。
そんな当たり前の事を前に、灯は何故か残念な様子を見せた気がした。
「……灯は俺みたいな死体愛好家じゃないんだよな?」
「ええ、勿論です。職業柄平気ではありますけど。どうして?」
「いや、ちょっと残念そうに見えたから……」
「はい?」
灯は死体愛好家ではないのだから、死体が出ない事を残念に思うわけがない。
そもそも灯は表情の変化があからさまな方じゃないんだから、多分俺の勘違いだったんだろう。
不謹慎にも残念だなんて事を考えているのは俺の方だ。
「やっぱりなんでもない。気にしないでくれ」
「言いかけた事ははっきりして下さい。眠れなくなるじゃないですか」
それもそうだな。俺だって言いかけて途中でやめられたら嫌だ。
「……悪い。俺の勘違いだろうけど、じゃあ言う。今日死体はいないんじゃないかって言ったら、灯が残念そうに見えたんだ」
「自分が……?」
「ああ、でも気のせいだったみたいだから、」
「…………」
俺の考えを否定するでもなく、灯は何かを考え込むように黙り込んでしまった。
もしかして、とんでもない事を言い出した俺にどうやって言葉の暴力を投げつけようか考えているのではないだろうか。そうだったらどうしよう。口喧嘩なんてリングに上がれる気さえしない。
怯えながら灯の顔を見つめていると、時を止めたように静止していた灯の目がこちらを向いた。
「いいえ、深月は正しいのだと思います。自分は確かに残念に思っていたようですから」
「え…………ど、どうして灯がそんな事を……?」
思った事を素直に問えば、灯はほんの一瞬だけ躊躇う様子を見せてから少し笑った。
「自分は、損壊を行う者に会いたいんです」
会いたい。
捕えたいではなく、会いたい、と灯は確かに言った。
「自分には姉がいました。二年前、姉はここ空葉町で殺され、食人されたんです」
「え…………?」
「だから自分は無残に殺され尊厳すら汚された姉のために、まだ捕まっていない犯人を裁こうと決めたんです。ここで事件を追っていれば、彼に会える気がして」
だから灯は連続死体損壊事件を追っていたのか。
「でも、この町で起きた事件だからと言ってまだここにいる保証なんてないだろ? それにどんな人かもわからないのに」
「ここにいるかどうかは確かにわかりませんが、自分は彼の顔をはっきりと覚えています」
「それって……」
「ええ。私は現場で彼を見ています。彼がこの町にいるのなら事件を追っていれば必ず会える。そんな気がします」
灯は淡々と話しているのに。
いつもの感情の起伏が殆ど感じられない話し方なのに。
灯が発する声からは、深く強い憎しみが滲み出ているように聴こえた。
街灯の下で、不意に灯が立ち止まった。
「そういえば、深月はクリスチャンなんですか?」
「違うけど……?」
「修復した時に呟いていたのが聖書の詩編じゃないかと思ったから」
「ああ……あれ、聖書だったか。なんとなく耳に残っていたんだと思う。クリスチャンではないけど教会には結構行っていたから。灯はそうなのか?」
「ええ。姉がとても熱心な信徒だったから自分もその影響で。教え自体も真っ当なものだと思いましたし。……ただ、」
灯は俺から視線を逸らして暗い空を仰いだ。
「神様が何かしてくれるとは思いませんけど、自分を見つめ直す場所として礼拝堂は優秀な場所ですよ。自分にとってはそれだけです」
言葉を流しながら、灯はどんどん歩いて先に行ってしまう。
小さな後ろ姿を慌てて追いかける俺の靴音が静かな夜にうるさかった。
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