第8話 深月と弥凪1

 あかりがいなくなってから約二時間後。

 今日も来ている。

 ちらっと視線だけ動かしてみると、昨日も来ていた男が絵の前にいる。

 昨日だけじゃない。一昨日もその前の日もいた。

 一体いつから通われているのか思い出せない。

 油断しているとそいつと目が合ってしまった。

「先生、コレ、いくら?」

「え、は、はいっ……先生?!」

 間違ってはいないだろうけど、全く聞き慣れないその呼び方に思わず椅子から立ちあがってしまった。すると、前にいる男も驚いた顔で体を少し後ろに引いた。

「え? コレ、アンタが描いたんでしょ?」

「そうですけど……」

「じゃあ先生でいーじゃん。で、いくら?」

 妙に馴れ馴れしく接して来る男に戸惑いつつ、訊かれた事に答える。

「二千円です」

「マジ?! 良心的すぎだろ! 原価割ってない?! ダイジョーブ?!」

「一応……大丈夫です」

「じゃあ買う! はい」

 男のテンションに半ば唖然としながら、千円札を二枚渡されたから絵と交換する。

 男性客は本当に嬉しそうに笑った。

 たったそれだけで、一気に恥かしくなる。

「先生、先生」

「……あの、その”先生”っていうのやめてもらえませんか? 落ち着かないので」

「ええ~? 先生なのにぃ」

「その、恥ずかしいから、本当に」

「ん~……じゃあ、何て呼べばいいの?」

「は……? あ、俺、真野まのと言います」

「名前は?」

 今名乗ったのに、こいつはどうして下の名前まで気にするんだろう。

「……深月みつき、です」

「へぇ~……ふ~ん……」

 じろじろと観察されて非常に気まずい。

 動物園の檻の中にいる動物も普段こんな思いをしているのだろうか。

 あまりもの気まずさに、訊かなくてもいい事を思わず訊いてしまう。

「そちらは? 誰なんですか?」

正ヶ峯しょうがみね弥凪やなぎ。弥凪でいーよ」

「しょ、しょうが……?」

 正ヶ峯しょうがみねなんて変わった苗字だな、と思い口にしたところ弥凪やなぎは呆れたような表情を見せた。

生姜しょうがって……まあ、それでもいいけど。ああ、特別っぽくていいね、ソレ。生姜って呼んで。じゃあオレは深月ちゃんって呼ぶね」

「深月ちゃん……?!」

 なんという事だ。先生の数倍恥ずかしいじゃないか。くそ、じゃあ俺も遠慮なく生姜って呼んでやろう。

「オレさ、深月ちゃんの絵大好きなんだ! 特に風景画。鮮やかすぎなくていーっていうか。妙に落ち着くんだよなぁ」

「それは、どうも」

「深月ちゃん、これ何で描いてんの?」

「油絵の具ですよ」

「ふ~ん。楽しい?」

「とても。俺、絵を描くのが好きですから」

「それはそうと深月ちゃんさ、彼女いんの?」

「…………いません」

「えー?! 可愛いのに! 意外!」

「や、可愛いって…………」

 大人の男に向かって可愛い、はないだろう。

 なんなんだ、こいつ。

「オレ、深月ちゃんの顔好きだよ」

「………………」

「ねー、オレと付き合ってよー、深月ちゃん!」

「はっ?! 何言っ……あの、俺、男なんだけど」

 そういえば前にもそんな勘違いは何度かされた事がある。

 俺はどうも女性に見えなくもない容貌らしく、悲しいかなナンパまでされた事がある。

 いや、ちょっと待て。

 さっき生姜くんは俺に『彼女』がいるのかを訊いてきた。

 という事はその手の勘違いはしていない。

 というかこれだけ会話しているんだから声から女性ではない事くらいわからないわけがない。

 つまり、こいつは一体なんなんだ。

「深月ちゃんが男なのは知ってる。なんで今更そんなこと言うの?」

 頭痛い。

 なんでって言葉がなんで出てくるんだ。

 どこまでもわけのわからない奴だな。

「……生姜くんは男の人が好きなのか?」

「女の人も好きだよ」

 なるほど。どっちもいけるというやつか。

「悪い。俺は……女の人専門だ」

 本当は綺麗な死体専門だけど。

「ふーん。じゃ、まあいいや。残念だけどあっ!」

「な、なんだ……?」

「休憩時間過ぎてら! じゃあまたね、深月ちゃん!」

 生姜くんは元気よくぶんぶんと手を振りながら街角に消えて行った。

 嵐のような青年だったな。

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