第7話 深月と灯2
なんだかひどく疲れている。
連日連夜町を徘徊しているのだから当然の事ではある。それにしたってとにかく疲れている。
だるいとかそんなんじゃない。
気力が出ない。
「はぁ……」
深く息を吸って呼気と共にため息を吐き出した。
今日も空は綺麗な蒼だ。
こんなに天気がいいと外に出て自然をキャンバスの上に残したくなるから、俺の絵は必然的に風景画が多くなる。
もともと風景画は好きだからそれを描く機会の多いこの町を俺は気に入っている。
午前中は睡眠にあてていたから、時刻はもうお昼を過ぎている。
朝の通勤ラッシュなんてとっくに終わり、通りは昼食を取り終えて会社に戻る人達でそこそこ賑わう。
俺は普段昼食をとらない。
一日三食も食べなくても空腹にはならないし、まず食事という行為が億劫だ。
「こんにちは」
明るい色のウェーブがかった髪を揺らして、
急に現れたことにもだが、昨日の夜のことを思い出して一人心臓をバクバクさせている俺の音が自分の中でうるさい。
「……え、っと……」
もっと平然とした態度で答えたかったのに、現実はそううまくいかない。
動いた風に乗って鼻孔をくすぐる女の子の匂いが、堂々としていたい俺の思いを無視して視線をきょろきょろと動かしてしまう。
その先で、昨日の昼間出会った時と同じくなんでもない風な顔をした黛さんと目が合う。
「……あの、ま、黛さん……?」
「はい?」
「えっと……き、気にしてない、とか?」
「……はい?」
嘘だろ。本気で何の事を言っているのかわかっていない様子の黛さんに、恥ずかしいながら断片的にでも言ってしまおうという気になる。
「いや、だからっ……昨日の……」
言いかけながら黛さんをちらりと横目で見ると、傾げていた首が一度縦に振られた。
ようやく合点がいったらしい。
「……ああ。あれは
「え?」
「思い出してほしいというのなら思い出す事も可能ですよ」
黛さんの人形のように端正な顔がぐいっと至近距離に寄ってきたので、背が反射的にのけ反る。
そんな苦しい状態で喉から声を絞り出す。
「いや、いい! 思い出さなくて結構!」
「そうですか」
黛さんはあっさりと身を引いてくれた。よかった。もっとからかわれるかと思って変な汗をかいた。
本当になにを考えているのかわからない人だ。
黛さんは手に持っていた白いビニール袋を胸の高さくらいまで持ち上げた。
「ここで昼食を摂ってもかまいませんか?」
「……どうぞ……あっ、ちょっと待て」
慌てて画廊の中に椅子を取りに行く。
すぐに戻ると黛さんが笑っていた。
「ほら。パイプ椅子しかなくて悪いけど」
「いえ、ありがとう」
礼を言いながら椅子に座った黛さんはビニール袋の中から菓子パンらしきものを取り出し、何故か俺の顔を見た。
「な、なにか……?」
「深月はもう済ませたんですか?」
「いや、いつもお昼は食べないんだ」
「願掛け?」
「特に理由はないけど……強いて言うなら三食きっちり食べる程食事に興味がないからかな」
「まだ若いのに……そんな事じゃ体がもちませんよ」
「いいんだ。俺は締め切りにも追われていない呑気な画家だから」
そう言ったのに黛さんは何を気にしているのか、ビニール袋の中をじっと覗いて意を決したように一つのパンを取り出す。
それが俺の顔の前に差し出される。
「どうぞ」
「え」
「死なれては困りますから」
真剣な顔で困るとか言われても、俺だって困る。
一食抜いた生活をしているだけで生死に関わる何かがあるのだろうか。あるわけがない。
「……大袈裟じゃないか?」
「何を悠長な事を。呑気な画家だけならいいかもしれませんが、犯罪者に遭遇した時に力負けしてしまったら死ぬかもしれないんですよ」
「……」
まあ、黛さんの言う事はもっともだけど、食事ってそんなに大事なものだろうか。
「いいから食べて下さい。深月はただでさえ細いんだから」
なんだろう。ひょっとして、俺の事を心配してくれているんだろか。こんな経験俺にはないから、どう対処していいか戸惑うな。
他人に食べ物をもらってもいいんだろうか。
この人のことは全くよくわからない。けれど、俺がこれまで出会ってきた誰よりも害意を感じないのは確かだ。
信じてみても、いいんだろうか。
「……ありがとう」
「どうしたしまして」
黛さんから受け取ったパンはどこかのパン屋さんのものらしくポリ袋にセロハンテープで封がされていた。
テープを剥がして袋を開き中のパンを半分くらい出るように押し出す。
「これ、何のパンなんだ……?」
「りんごとパインの酢豚デニッシュです」
「りんご……酢……パイン……?」
これは嫌がらせだろうか。
それとも純粋な好意なのか。
実にわからない。どうしよう。
悩んでいても一向に埒が明かないので、思いきって一口齧ってみよう。
「……ん……? むぐ、……?」
なんか……思っていたより不味くない、気がする。
よくわからないけど、だんだんと美味しいような気さえしてきた。
あまりにも食事に興味がない所為で俺の味覚がおかしいんだろうか。
俺の様子を気にしているのかしていないのか、黛さんも別のパンを頬張っている。
「それ、今週のオススメ商品だそうですよ」
「…………そ、そうなのか」
なかなか個性的なセンスのパン屋さんだな。
二度と出会えないかもしれない。じっくりと味わわせてもらおう。
「そういえば深月」
「ん……?」
「自分のことはもう下の名前で呼んでくれないんですか?」
「ごほっ」
忘れたとか言ってたのに、今掘り起こしてくるのかよ。いい性格してるな。
「どうぞ、お茶です」
ペットボトルのお茶を差し出されたから、ありがたく受け取って飲んでから咳払いを一つ落とす。
「……あれは気の迷いというか、あの場の勢いというか、忘れたんじゃなかったのか」
「失礼しました。でも、黛さん、だなんて長くありませんか?」
「いや、黛さんは一応俺の上司だろ? 長かろうがなんだろうが下の名前でなんて呼べるか」
「お言葉ですが、深月はすでに自分に対して敬語を使っていませんよね」
「う……」
今更恥ずかしいからだなんて言えない。
「ふむ。では上司命令です。自分のことは
「……」
渋っていると、黛さんが新しいパンに手を伸ばした。
俺の返事などそもそも気にしていないのか、そのまま袋を開けてパンを食べはじめる。
というか。
「……それ何個目だ……?」
「5個目です」
「という事は、俺にくれなかったら6個も食べるつもりだったのか……?」
他人のことながらちょっと胸焼けがする。
「運動したらお腹が空きますから。……御馳走さまでした」
いつの間にか食べ終わっている。この人は、本当にお昼を食べに来ただけなんだろうか。
「あの……あ、灯は、その、なにをしに来たんだ……?」
「現在捜査中ですが、休憩がてら深月の様子を見に来ました。深月はいつから絵描きをしているんですか?」
「中学を卒業してからだな」
「中卒で? 珍しいですね。そんなに早く画家になりたかったんですか?」
「そうだな……中学2年の時に両親が事故で亡くなって、保険金が入ったんだ。俺は学校が楽しくなかったから高校に通うくらいならいっそ自分の好きな事をして生きようと思った」
人と関わる事が、話す事が苦手だった俺はいつもクラスで一人だった。
ぼんやりと自分の机に座って、周囲の楽しそうな喧騒に耳を傾けないようにしながら一日が過ぎるのをただ待っていた。
家に帰っても家族の中で会話らしい会話なんてない。
そんな日々が本当に辛かった。
いつも抜け出したかった。
誰にも言えない心の中でずっと助けを求めて、そしてそれは唐突に叶えられた。
「今は多分幸せなんだと思う。毎日好きな事をして生活出来ているんだから」
灯に微笑みかけようと思ったら、俺の表情の変化よりも早く灯が俺を抱きしめていた。
「……あ、灯……?」
「深月は一人で本当に寂しくないの? 自分は一人が寂しいです」
強く触れた温もりが本当に暖かくて、こんな風に暖かいと感じる事の出来る自分も本当は寂しいのだろうかと、ふと思う。
俺の胸に顔を埋めている灯の柔らかそうな髪に触れてみた。
小さな頭を撫でようとしたけれど、灯はすぐに俺から離れてしまった。
「こうやって他人の体温を感じる事も時には必要ですよ。深月には温度のない身体の方がいいのかもしれませんけど」
そう言って笑う灯の方が、誰かを強く求めているように見えた。
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