第5話 静かな夜
黒く小さな影が、画廊の壁に
一度見たら忘れられない、印象的な赤みがかった瞳と、無機質な人形のように整いすぎた顔が俺を見る。
「……時間通りですね」
「ああ……これから死体のところに向かうのか?」
「それが望ましいのですが……
「そういうわけではないが……なんとなく俺の進路にいることが多いというか……。今夜は、あっちの方に行きたい気がする」
等間隔で立つ街灯が途切れた路地の向こうを指差す。より夜の暗闇を引き立てているそこから、いつもの冷たい空気を感じる。死体特有の、体温が失われて冷え切った空気を。
はっきりとそこにいると確信しているわけではない。細かい場所がわかるわけでもない。
ただ、冷えた空気に呼ばれている気がするだけだ。
「現場がわかるのは予想外の収穫です。では、早速……と、その前に」
「支給された制服です。捜査の間はこれを着用してください」
紙袋を覗くと、言われた通り制服らしきものが入っている。
「ちょっと待っていてくれ」
画廊の鍵を開けて、室内で着替えを済ませ、外へと戻る。黛さんと同じ色で揃えられた制服は意外と軽くて、腕や足が動かしやすい。
黛さんの視線が、俺の頭からつま先までをゆっくりと撫でる。
「よく似合っていますよ」
誰かに外見を褒められたのははじめてだ。嬉しさよりも気恥ずかしさが先に立つ。
「……どうも」
「行きましょうか。案内よろしくお願いします」
歩き出した俺のとなりに黛さんが並ぶ。人がついてくる感覚に緊張して、自分の歩き方はおかしくないだろうかなんてことが気になってしまう。
誰かと行動するのは苦手だ。
俺はいつも一人でいて、誰かとこんな風に距離を離さずに一緒に歩く事なんてなかった。
今はもういない両親とさえも。
静かな夜に、二人分の足音だけが響く。
突如、黛さんが俺の背後を指す。
「それ、鏡には映ったりするんですか?」
「は……?」
怖くて振り向けないが、俺の後ろになにかあるんだろうか。
俺の様子に、黛さんが首を傾げる。
「もしかして、深月には見えないんですか?」
「な、なにが……?」
黛さんの口が一瞬だけ躊躇ってから、俺に告げる。
「深月が背負っているツギハギの死体のことです」
鏡に映るもなにも、そんなもの俺には一切見えていない。重さも感じない。
「黛さん、この時間帯にそういう類の冗談は怖すぎると思うんだが……」
「……ああ、なるほど。これは自分にしか見えないものなのか……」
「特異能力のことと言い、黛さんには霊感でもあるのか?」
「いえ。霊感があったことはありません。これはおそらく自分の特異能力のせいです。自分にははじめからそれが見えていましたから」
「はじめから、って……」
「貴方を見つけた時からです。自分はそうやって他人の特異能力を見つけることができるようです」
自分の能力なのに、どうして確信がないような言い方をするんだろう。
「実は、自分が起こした能力者は深月が初めてなんです」
「そうだったのか。それで、俺に背負われている奴は霊じゃなくてなんなんだ?」
「それは深月の特異能力の原因です。自分が能力を開いた時、見えませんでしたか?」
そういえば、白いだけの世界で開けた棺にはツギハギの少女がいた。
「それ、女の子か? 髪の長い」
黛さんが頷く。
「黛さんには、誰にでもこういうのが見えるのか?」
そうだとしたら、視界が随分と騒々しいだろうな。
「自分に見えるのは特異能力を持つ者にだけで、わかるのは、その死体からの情報だけです。ツギハギなので、修復の力なのではないかという推測をしました」
「修復の力? 俺に?」
「おかしいですか?」
おかしい、と思う。
修復なんてのは、優しい奴の力だろう。
俺は生きている人間が嫌いだ。嫌なことばかりがあった。いい思い出なんて思い出せない。
人との関わりが煩わしくて、絵の世界に逃げ込んだ。温度のない静止した世界は居心地がよかった。
どちらかと言えば、俺はすべてを壊してしまいたいと思う側の人間だ。
そうだな……この事件の犯人の能力の方が俺には相応しい。
空気が湿って、冷える。
微かな風に乗り、嗅ぎなれてしまったにおいが鼻先を掠めた。まだ新しい失われた生命のにおいだ。
歩幅を狭くし、ゆっくりと近づく。ここは騒々しく足音を立ててはならない場所だ。静かに眠っているだろう子が、この先にいるのだから。
町の明かりが届かない暗く狭い路地の突き当たりに、その子はいた。
まだ少女だ。十歳前後くらいだろうか。
俺の横で死体を見ている黛さんが呆然と呟く。
「……どうして、こっちに行きたいと思ったんですか」
少女の左腕と左足首、左の眼球は見当たらない。
「なんとなく……肌に軽く風が当たるみたいに、冷たい感じがするんだ。寒いのとは少し違う感覚なんだが、その冷たさが当たる方に行くと大抵、いる」
「勘に近いようなものですか」
「そうかもな」
黛さんに返答しながら、少女の死体の真横に膝をつく。
真っ黒で、脱色や染色なんて一度もした事がないような艶のある長い髪は手触りが良さそうだ。その髪に触れる。やっぱり、思っていた通りの滑らかでさらさらな上品な髪だ。
目にかかっていた前髪を、左右に分ける。眼球のある右目は、見開かれたまま乾いている。眼球にまだ混濁は見られない。殺されてから、そんなに時間が経っていないのだろう。
眼球が損なわれた左目は、真っ黒い孔で俺を見ている。
闇の淵を指先でなぞってから、頬に手のひらを添える。
なんて可愛らしいんだろう。
少女が生きていた時の、キラキラと輝く明るい笑顔が、脳裏にフラッシュバックした。
「……っ……?!」
俺は生前の彼女など知らない。これまで見た事もない女の子だ。どこかで偶然すれ違った事くらいなら、もしかするとあったかもしれない。でもそれだけだ。顔を記憶しているわけもない。なのに、この子の生前が見えた。少女が生きていた頃の姿が、俺にははっきりとわかる。
「…………これが……俺の能力……?」
見えただけだ。それをどうしていいかわからない。
「深月の力はおそらく絵に宿ります。見えたものを描いてみてください」
見えたものを描く。
生前の、殺される前の、損壊される前の少女の姿を、絵に描き起こせばいいんだろうか。
「やってみる」
死体のすぐそばで、片膝を立てて腰を落とす。
持ってきたスケッチブックのページを捲り、白紙のページを探す。耳の上に掛けている鉛筆を慣れた動作で引っこ抜き、黒い芯を白い紙に乗せる。
作業を手助けするかのように、スケッチブックに月の光が降ってきた。
手が震える。
描きたい。
早く、この少女を絵に描きたくてたまらない。
早く、この子が五体満足で死んでいる姿を、描きたい。
何も損なわれていない、完璧な死体を、すぐに描きたい。
色の失われた肌で、上下しない胸で、ただ眠っているだけのような死体を。
早く、はやく、はやく、描き起こしたい。
衝動的な欲求に逸る右手が、汗ばむ。
呼吸が荒くなる。
勢いのある呼気と共に、自然に言葉が吐き出される。
「我は
右手が急いて、休む間もなく動く。
左腕が、左足首が、左目が、失われる前の、楽しそうな笑顔の少女が、俺の脳裏を駆けている。
体のどこも欠けていない少女の姿を、紙の上に再生させていく。
心臓が、これまで聴いたことがないくらいうるさい。全身が沸騰しそうに熱い。
こんな気持ちは初めてだ。可愛い。愛しい。この少女の死体は、貴い。呼吸が乱れる。美しい完璧な死体を描く事に、至上の悦びを感じる。
俺が、少女を救うんだ。悲惨な目に遭ってしまった、憐れな少女を元に戻す。大好きな綺麗な死体に戻す。死体を、損壊される前の状態にするんだ。
少女の左腕を描き上げる。
すぐ目の前にいる死体の、失われていた左腕が、元から無くなってなどいなかったかのように再生する。
左足首を描き込む。
血に濡れた断面を見せていた足首から先が現れて、断面を覆い隠す。
最後に顔の中、左目を描き入れる。
漆黒の空洞だった少女の眼球が、元通りに納まる。両の目はそろって、しっかりと暗い空を向いた。
「……汝に正しい
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