ドゥムカ
増田朋美
ドゥムカ
今日は、この時期一番の暖かさだったということで、中には暑いと口にする人までいるほどの暖かさだった。まあ、春になると、そういうことになるが、でも、なんとなく、季節が変わっていくというのは寂しいなと思ってしまうことも無いわけではない。
その日、杉ちゃんは、栄養価のある小松菜とちりめんじゃこのパスタをたくさん作った。小松菜もちりめんじゃこも、骨を元気にしてくれるカルシウムがいっぱいだ、なんていいながら、パスタのお皿を車椅子用のトレーに乗せて、杉ちゃんは水穂さんのいる四畳半へ向かう。
「おーい、ご飯だぞ。今日も、完食してくれよ。今日は、小松菜とちりめんじゃこのパスタだよ。」
杉ちゃんがそう言って、四畳半のふすまを開けると、水穂さんは目を覚まして、よろよろと布団の上に起きて、
「どうもすみません。」
と、小さな声で言った。
「すみませんじゃないよ。それよりも、しっかり食べて、栄養を取ることだな。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんは、すみませんと言って、お皿を受け取って、サイドテーブルに置いた。
「さあ食べろ。今日は、ちゃんと、完食してもらわないと、困るからな。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんは、はいと言って、箸を受け取り、パスタを食べ始めた。時々、食べ物を口にすると、咳が出て食べるのを邪魔した。杉ちゃんは、食べ物を口にするという行為が、水穂さんにとっては、恐怖であることを知っていた。
「大丈夫だよ。食べ物は何も怖いことはないから。食べ物は凶器でもなんでも無いですよ。それよりも、栄養として、ちゃんと、体の役に立つものだからな。バカにするのも行けないし、怖がっても行けない。」
そう杉ちゃんに言われて、水穂さんは、怖がるような表情をしながら、パスタを食べるのだった。
「たしかにねえ。凶器になった時期もあったかもしれないが、でも、食べ物は、そのためにあるもんじゃないからな。車が、ガソリンで動くのと同じでさ。人間のエネルギーは、食べ物で取るんだ。」
水穂さんは、ちりめんじゃこを眺めて震えている。確かに、若い頃、肉さかなを食べては行けなかったと言われていた時期もあったし、意地悪な同級生が、無理やり肉や魚を食べさせて、死にかけた事もあった。その時の、記憶というのは、映像化はできなくても、感覚として、水穂さんの体に残ってしまっているのだ。それは、どんな人間でもそうである。それを取り除くには、ヒプノセラピーのような、特殊な治療が必要なのかもしれないが、水穂さんには、それを受けられる経済力もなかった。
水穂さんは、ちりめんじゃこを一つ取ったが、やっぱり怖かったようで、咳き込んでしまうのだった。ああほらほら、と、杉ちゃんが、背中を叩いて内容物を出しやすくしてやっていると、
「こんにちは。」
と、玄関先で女性の声がした。
「今頃誰だろう?」
と、杉ちゃんが言うと、
「はい。浜島です。ちょっときいてほしいことがあって、それできたのよ。」
と、言う声がしたので、呼んだのは浜島咲だった。
「今手が離せないから、上がってきてくれ。」
と、杉ちゃんが急いでそう言うと、咲はわかってるわよ、と言って、どんどん入ってきてしまった。咲は、サイドテーブルに、パスタが置いてあるのを見て、
「あらあ、右城くん、ご飯中だったの?いいわねえ、杉ちゃんに毎日毎日作ってもらえて。」
と、できるだけ嫌味を抑えていった。
「今日は、小松菜とちりめんじゃこのパスタかあ。昨日は、何を食べたのよ?」
「アラビアータ。」
杉ちゃんが、でかい声で答えた。
「そう。昨日はアラビアータで今日は、小松菜かあ。いいわねえ。杉ちゃんおんなじパスタでも、こうして色々作れちゃうんだから。いくら食べても飽きないでしょう。パスタって不思議よね。どんな味でも、不思議にあうんだからねえ。」
咲は、羨ましそうに言った。
「そう言うんなら、パスタは色々種類があるし、具材も色々だから、試してみたらいいじゃないか。」
と、杉ちゃんが言うと、
「まあねえ。そうすればいいんだけど、あたしは一人暮らしだし、作ってあげたい人もいないし。仕事は疲れるし、もうコンビニ弁当で、満足しちゃうわよ。」
と咲は、答えた。
「そうなのね。そういうことを、言い訳しないで、美味しいものを作るように努力しろ。コンビニ弁当ばかりだと、脚気になっちまうぞ。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「それより、はまじさんは、なにか相談に来たの?」
「実はねえ。」
杉ちゃんに言われて咲は、大きなため息をついた。
「はあ、じゃあ僕が当ててやる、正しく苑子さんに叱られたんだろう。」
と、杉ちゃんが言うと、
「はい。其のとおり。図星よ。まあ、叱られたのは、あたしじゃなくてねえ。他のお弟子さんだったんだけど。あのね、お弟子さんの一人がね、新しい曲をやろうといい出したのよ。なんでも、動画サイトで聞いて、やってみたくなったんですって。其のタイトルは、牧野由多可とかいう人のカプリチオ。」
と、咲は、またため息をついて、ここまでを一気に話した。
「ああ、あの変わった曲を作ることで有名な作曲家ですね。」
水穂さんは、咲に相槌を打った。
「そうなのよ。まあ、あたしも、予想はしたけど。苑子さんは、激怒してね。あんな、お琴を冒涜するような曲を、うちの社中でやれるかって、怒ったのよ。その怒り方が強烈だったから、お弟子さんは泣いちゃったりしてね。それで、あたしも、なんかむしゃくしゃして、お稽古が終わったわけ。」
咲は、水穂さんの話にあわせた。
「なるほどね。まあ、そうなっちまうよね。あんなショスタコーヴィチみたいな曲を、演奏するのは、ちょっと僕も嫌だな。お琴は、お琴らしい曲が一番いいよ。ショスタコーヴィチは、他の楽器でやればいいさ。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「それでは、あたし、どうしたらいいのかしら。明日、お稽古場に行って、苑子さんになんて行ったら?」
咲が、急いでそう言うと、
「しばらく、きつい状態が続くと思います。それが、通り過ぎるのを待つしか無いんじゃないですか?」
と、水穂さんは答えた。
「そうだねえ。女っていうのは、いつまでも、過去のことを引きずりやすいものだからね。そういうときは、態度で示すしか無いんじゃないの?まあ、お弟子さんは、どうするかわからないけど、はまじさんは、苑子さんのもとで働かなければならないわけだし。それでは、単純に、受け入れるしか無いね。苑子さんが、しばらく怒ってても、一緒になって、振り回されるのではなく、淡々と過ごせばいいんじゃないかな。そして、質問すれば答えてさ。それで、通り過ぎるしか無いじゃないのかな?」
杉ちゃんが、咲の話をまとめるように言った。
ちょうどその時。
「右城先生!連れてきましたよ。ちょっと、時間早くなってしまいましたけど、バスの都合でそうなってしまいました。この辺り、一時間に一本しか走ってないですからね。ちょっと早いですけど、上がらせてください。」
と、言いながら、入ってきたのは浩二くんだった。製鉄所の玄関は、土間がなかった。だから、歩ける人に取っては、いかにも簡単に、入ってこられてしまうのだ。それは、吉と出るときもあるし、凶と出るときもある。
「おう、今、はまじさんが来ているけど、それでも良ければ上がれ。」
と、杉ちゃんに言われて、浩二くんはわかりましたと言って、部屋へ入ってきた。
「ほら、来てください。本当に、右城水穂先生に会うことができます。演奏をきいてもらうこともできますから。こんなチャンスは、きっとありませんよ。どうぞお入りください。」
浩二くんに言われて、一人の女性が入ってきた。なんだか、自分によほど自信が無いような顔をしていて、ちょっとこれでは大丈夫なのかと心配になってしまうような女性だった。
「お名前をどうぞ。お前さんの名前なんていうんだ?ちなみに僕は、影山杉三で、杉ちゃんって言ってね。こっちは、友達の磯野水穂さんね。旧姓右城。そして、これが、フルート奏者の浜島咲さん。あだ名ははまじさんだ。」
杉ちゃんが、全員を紹介してしまったため、自己紹介をする必要はなかった。水穂さんと咲は、よろしくお願いしますと、頭を下げた。
「はじめまして。私、田中美子と言います。ヨシは、美しいで、子は子供の子。よろしくおねがいします。」
「田中美子ね。なんか、どっかのアイドルグループの女性みたいだね。」
と、杉ちゃんが言うが、そのたなかよしこに比べると、随分若い女性だった。
「親が、田中好子のファンだったとか?」
杉ちゃんが笑うと、
「杉ちゃん、余計なことはいわなくて結構ですから、レッスンを始めてください。今日は、右城先生に、彼女の演奏を聞いてもらいに来たんですよ。」
と浩二くんは、急いでそれを止めた。
「わかりました。曲目はなんですか?」
水穂さんがそうきくと、
「チャイコフスキーのドゥムカという曲です。」
と、浩二くんは答えた。なんだか変なタイトルであるけれど、直訳すると、ロシアの農民の踊りという意味になるらしい。
「じゃあ、弾いてみていただけますか?」
水穂さんがそう言うと、美子さんははいわかりましたと言って、グロトリアンのピアノの前に座り、ピアノを弾き始めた。確かに、音はとれているし、リズム感もちゃんと弾けているのであるが、どこか、平凡な演奏で、まあ誰でも弾ける演奏ということだろう。個性的なところは、あまりない演奏であった。チャイコフスキーのドゥムカというと、ちょっとテレビドラマのテーマソングに似た、悲しいところがある曲でもあるが、そういうところも感じられない演奏であった。
弾き終わると、水穂さんと浩二くんは、拍手をした。
「なかなか演奏技術もあって良いじゃないですか。コンクールでも出られるんですか?」
と、水穂さんがそうきくと、
「コンクールではないのですが、ピアノマラソンに参加することになっています。」
と、田中美子さんは答える。
「ピアノマラソン。ああ、ホールでの演奏を体験しようみたいな行事ですね。いいですね。最近はホール側がそうやって弾く場所を用意してくれるんですから。それは、嬉しい時代になりましたね。」
水穂さんは、そう続けた。
「それでは、先生。なにか美子さんの演奏について、気づいたことを仰ってください。」
と、浩二くんが言うと、
「そうですね。まず、伸ばす音はちゃんと伸ばすこと、休符を忘れないで、しっかり休むこと。それをしっかりやってください。それだって音楽なんですから。あと、ペダリングは、楽譜どおり忠実に。なんの版を使っていらっしゃるんですか?ヘンレとか、それとも、ベーレンライターとか?」
水穂さんはそう聞いた。
「はい。あたし、そういうちゃんとした楽譜を買ったことが無いんです。ほら、今、インターネットのサイトでダウンロードできるじゃないですか。それでだと、お金もかからないし、すぐに、印刷できるから、それでやらせてもらってます。」
と、田中美子さんはそういった。
「そうですか。わかりました。確かにそういうふうに、無料で楽譜は入手できますけど、ペダリングのことや、強弱のことは、あまり詳しく掲載されていないので、それは、それは、気をつけてやってくださいね。」
水穂さんは、田中美子さんの話に、そうあわせたのであるが、咲はちょっと其の話を聞いて腹がたった。邦楽では、曲を決めるのに、あれだけ叱られなければならなかったのに、洋楽は、簡単に楽譜が入手できて、どんな曲をやっても叱られることはない。
「いいわねえ。どんな派手な曲をやっても、叱られないで、人前で弾けちゃうんだから。」
思わず咲は、口に出してしまった。
「だって、邦楽と洋楽は、ジャンルが違うだろ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「でも、羨ましいと思ったわ。だって、あたしたちは、現代曲やろうとしても、叱られちゃうもん。ピアノでは、そうやって、派手な曲やっても、叱られないんだから。」
と咲は、羨ましそうに言った。
「はまじさんは、今は、お琴の仕事してるんだから、それ以外の楽器について、怒ったり、羨ましがったりしちゃいかん。」
杉ちゃんにそう言われて、咲は、黙るどころか、非常に怒ってしまった。
「そう言われてもよ。あたしたちは、新しい曲をやるにしても、いつもお琴への冒涜だとか、お琴をバカにしているだとか、そういうことを言われて、そればっかりなのよ。それなのに、ピアノと言う楽器では、どんな曲でも、やることができて、下手な演奏でも褒めてもらえて。これって不公平じゃないの。あたしが、どうして苑子さんに叱られるようなことを、されなきゃいけないのかしら!」
「まあ、浜島さん。邦楽と洋楽は歴史が違いますし、今の時代、考え方も違うでしょうから、お互い比べることもしなくていいのではないですか?」
と、水穂さんが、咲にそういったが、咲は更に続ける。
「あたしだって羨ましいわよ。あたしたちは、コンクールとか発表会は何も無いのよ。それなのに、ピアノは、ホール体験会だことの、コンクールだことの、いろんなものがあるなんて、羨ましいわよ。どうせ、そんな演奏しかできないんだもの。ろくな奏者じゃないわよ。でも、ピアノは、挑戦する場に恵まれてるから、あまり、うまくなくても、演奏者になれちゃうのね。あたしたちは、演奏する場がなくて、やりたい曲もやれないと言うのにさ!」
「まあ確かにそうだわな。邦楽は日本の伝統音楽ではあるけれど、演奏する場がほとんど無いよな。」
杉ちゃんは、咲が話した現状を認めた。
「でも、海外から入ってきた洋楽よりも大事にしていいと思うんですけどね。洋楽は、邦楽に比べたら、歴史も浅いですよ。」
水穂さんは杉ちゃんの話に付け加えた。
「やっぱり私、来ないほうがよかったんでしょうか。桂先生が、一度は聞いてもらうといいと言うことで、一緒に来てしまったんですが。」
と、椅子に座ったまま、田中美子さんが言った。
「いや、大丈夫だ。はまじさんが言ったのは、ただの音楽業界の奴らが持っているぐちであって、お前さんの、ドゥムカが下手であるとか、そういうことは、話してないから大丈夫。」
と、杉ちゃんは、急いで彼女の話を訂正した。
「そうですよ。それに浜島さんが抱えていることは、美子さんに関係のあることではありません。美子さんが、自分を責める必要はまったくないんです。」
浩二くんもすぐに、彼女を養護するが、田中美子さんは、咲に対し、なんだか申し訳無さそうな顔をする。
「そんな、お前さんが謝ることはないよ。お前さんはただ、演奏したいだけでしょう。だったら、水穂さんに言われたとおり、休符のこと、ペダリングのこと、ちゃんと、指示を守って、練習することだ。はまじさんのぐちは、他の音楽をやっているやつの、ただのぐちだよ。気にしないのが一番だよ。」
杉ちゃんにカラカラと笑われて、田中美子さんは、涙を流してしまった。
「まあな、邦楽は、ちょっと、衰退というか、あまり表に出ないけど、其の御蔭で洋楽が栄えているってこともあるよねえ。まあ、そこらへん、ちょっと頭に入れておいて、ピアノを演奏することも必要なのかもしれないねえ。」
杉ちゃんが、そう慰める。
「ごめんなさいね。あなたを泣かせるつもりではなかったわ。なんか、ベートーベンとかチャイコフスキーの代わりに、山田検校さんの作品が広まってほしいななんて、思ってしまって。あたしだって、洋楽を潰す気はなかったわよ。ごめんなさい。きついことを言ってしまって。」
咲は、泣いてしまった彼女を見て、急いで、田中美子さんに謝罪した。確かに、邦楽は、衰退しているけれど、洋楽をやっている人を、泣かせてしまうのは行けないと思った。
「ごめんなさい。あたし、実力も何も無いのに、こんなところに来てしまって、それで、邦楽やっている方を怒らせてしまって。」
と、田中美子さんは、そういったが、杉ちゃんはカラカラと笑って、
「お前さんの演奏が、少なくとも、はまじさんを怒らせたわけでは無いからな。それは、勘違いしないでくれよ。」
「そうですよ。頑張って、ピアノマラソンに出るって、あれほど言っていたじゃありませんか。それは、忘れてはいけませんよ。僕もあなたのお母さんから、言われました。やっと、外に出てくれて良かったって。ピアノを始めてくれて、本当に良かったって。他人の一言で、意思を曲げてはいけませんよ。」
浩二くんは、彼女をそう言って励ました。
「人はいろんな事いいますが、それに左右されていたら、何もできなくなってしまいますよ。」
「でも、ごめんなさい。」
と、田中美子さんは言った。
「あたしが、どうのこうのして、世の中が変わるわけじゃないですけど、でも、なんか、邦楽をしている方に悪いことというか、行けないことをしてしまったと思いました。そちらの方が、チャイコフスキーより山田検校さんのほうが流行ってほしいって言ったけど、あたしたちは、山田検校さんなんてほとんど知らなかったですし。」
「音楽史的には、洋楽のほうがはるかに浅いですけど、邦楽を知っているひとは、本当に僅かになってしまった事も確かですね。それを謝罪する必要がないというのも、それはたしかに不公平かもしれないですね。」
水穂さんが、静かに言った。
「どちらも謝る必要は無いと思うよ。」
と、杉ちゃんはまとめるように言った。
「まあ、どちらの音楽も、隆盛してくれるのが、一番の願いだなあ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「ほんと、お互いどちらが悪いとか、そういうことを言うのは辞めるわ。あなただって、一生懸命ピアノやってるんだもんね。」
咲は、田中美子さんに何だか申し訳のない事を言ってしまったと思いながら、にこやかに言った。
「じゃあ、もう一回聞かせて。あなたの、洋楽の音楽。」
ドゥムカ 増田朋美 @masubuchi4996
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