第45話 昏睡

「逃げ足だけは速いのう。まるで鼠のようじゃ」


 くつり、くつりと、末姫が哂う。

 その頭には、狐の耳が生えていた。


「どうしてやろうかのう? 焼いてやろうと思うていたが、どうやら春正は、女の顔が焼かれても気にせぬ様子。ならば手足をもいでやろうか?」


 にまりと、扇の下の口が弧を描く。

 椿の足が一歩、一歩と後退るが、すでに退路はない。

 先程は巧く火の中を掻い潜ることができたが、今は見渡す限り火の海だ。飛び込めば火から逃れることは叶わないるだろう。


「春正様」


 我知らず、椿の口からその名が零れ落ちた、その直後だった。


「椿!」


 名を呼ぶ声に、椿は振り向く。炎の中から青鹿毛に跨いだ春正が現れ、彼女に手を伸ばしていた。


「春正様!?」

「椿、手を!」


 驚く椿の手を取ると、春正は青丸を抱えた彼女を、青鹿毛の上に引き上げる。それからすぐに馬首を返して、炎の中に駆け戻った。


「おのれ、春正! 許すまじ!」


 末姫の怒声が響き、炎が勢いを増す。

 けれど青鹿毛が進む先は、彼らを避けるように炎が割れ、道が現れた。春正は手綱を緩めることなく、椿を抱きしめ駆けていく。

 その途中で、擦れ違う人影があった。振り返った椿の目に、炎の奥へと馬を駆る、蒲野安武の後ろ姿が映る。


「春正様!」

「言うな。しっかり捕まっておれ」

「はい」


 椿は、春正の胸にしがみ付く。

 手綱を振るうと共に春正が声を発すると、青鹿毛が跳躍した。炎の垣根を飛び越えて、燃える屋敷から脱出する。


「殿! 御方様! ご無事でございますか!?」


 駆け寄ってきた成貞が、青鹿毛の手綱をつかんだところで、春正の体がぐらりと揺れた。


「春正様!?」

「殿!」


 寸でのところで成貞が支え、地面にゆっくりと下ろしたが、春正の意識はない。

 椿の脳裏に、童の言葉が蘇る。 


 ――次に春正が椿に触れたら、春正は死んじゃうかも。


「春正様!」


 椿の悲鳴が上がった。



    ◇



 うだるような夏が過ぎ、秋虫たちが涼やかな音色を奏で始めた。

 夜半にふと目覚めた椿は身を起こし、誘われるように庭へと目を向ける。彼女の瞳に、艶やかに輝く、深い緑の葉は映らない。


 末姫が水嶌の屋敷を襲った事件では、幸いにも死者はなく、数名の者が火傷を負った程度で済んだ。

 最も深手を負ったのはお鯛だが、腕に火傷の跡が残ったものの、すでに女中の仕事に復帰した。

 焼け落ちた屋敷は現在再建中で、住めるようになるには、まだ時間が掛かるだろう。それまでの間、水嶌家の者たちは、仮の住まいに居を移している。


 椿が炎の中で見かけた蒲野安武は、水嶌の屋敷が燃えた翌日に、領地である松浜へ戻った。

 後日、過分なほどの見舞い金が、澄久と安武から届く。更に安武からの見舞いには、手助けできることがあれば遠慮なく申し出てほしいとの、書状まで添えられていた。 


 末姫の生死は分かっていない。ただ、最後に椿が彼女を見た奥庭に、焼け焦げた狐らしき亡骸があったそうだ。

 それが末姫のなれの果てなのだろうと判断され、狐の妖に対する人々の恐怖は取り除かれた。

 現にあの日以来、竹林が燃えるという災難は起きていない。


 その竹林は、あちらこちらで花を咲かせている。そろそろ実を結ぶのではないかと、夕刻に成貞が報告して帰った。


 庭を埋め尽くしていた藪つばきは、ここにはない。水嶌の屋敷に戻っても、春正が育ててくれた藪つばきは、全て失われている。

 木だけならば、再び植えればよい。けれど、そこに込められた想いまで、取り戻すことができるのか。

 椿は締め付けらるような苦しさを覚えて、胸元を握る。


 深く息を吐き出し、夜空に目を向ければ、丸い月が浮かんでいた。

 月にはかえると兎が住み、不老不死の妙薬を作っているという。


「その薬があれば、春正様は、お戻りくださるでしょうか?」


 丸い月を眺めながら、椿はぽつりと呟く。


 屋敷が燃えた日。彼女はかつての白い肌を取り戻した。生え始めた髪は一気に伸びて、すでに肩ほどにまで達する。

 けれど、彼女に喜びはない。


「私は、焼け爛れたままでもよかったのです」


 なぜあの時、手を伸ばしてしまったのか。

 椿は悔やみ続けた。

 どんなに悔やんでも、時を巻き戻すことはできない。分かっていても、胸の奥から湧き出てくる後悔の念は、止められなかった。


 青丸の甘やかな鳴き声が聞こえて、椿は月から視線を下げる。彼女の隣には、春正が横たわっていた。

 彼は青鹿毛の上で意識を失ってから、一度も目覚めていない。

 時が止まったように眠り続ける春正は、僧医いしゃの見立てによると、なぜ生きているのか不思議な状態だという。


 そんな春正の枕元には、丸くなった青丸が眠っている。春正が眠りに就いてからというもの、青丸は一時たりとて、彼から離れない。

 無理に小屋へ戻そうとすれば、相手が椿であっても、暴れて啄んでくるほどだ。


「春正様を、お守りしてくれているのかしら?」


 椿は優しく青丸の背を撫でる。

 枯れ果てたと思うほどに流した涙は、まだ残っていたらしい。ぽたりと落ちて、膝を濡らす。


「どうか、どうかお戻りください、春正様。お願いでございます」


 縋り泣く彼女はしかし、決して春正の体に触れなかった。




 竹の実が収穫できたと報告があったのは、山が赤く色づき始めた頃のこと。


「御方様、竹の実が届きました」

「ありがとう」


 成貞が収穫したばかりの竹の実を、籠に入れて持ってきた。


「されど、これを如何いかがすればよろしいのでしょうか?」


 問われた椿も分からない。

 夢の童からは、竹の実を集めるようにとしか、言われていないのだから。

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