第44話 襲撃
火の手が上がったのは、安武が水嶌の屋敷に滞在して二日目のことだった。
報せが届くなり、春正は成貞たちを連れて、竹林へ急行する。安武もまた、馬を駆って彼らを追った。
屋敷に残った椿は、男たちの無事を祈る。
「御方様、ご案じ召されますな。殿は私より強うございます。狐如きに遅れは取りませぬよ」
重勝の励ます言葉に笑みを返しながらも、椿の心は落ち着かない。彼女の気持ちがうつったかのように、青丸が騒ぎ出した。
「大丈夫よ、青丸」
青丸を抱きかかえて、椿は外を見る。遠方に煙が立ち昇っていた。おそらくその下に、件の竹林があるのであろう。
「民たちに、怪我がなければよいのですが」
「あらかじめ対策を取っておりますゆえ、ご懸念には及びませぬ」
そんな会話をしていると、青丸が一際甲高く声を上げる。翼を広げて、椿の腕の中で暴れ出すではないか。
「青丸? 落ち着きなさい」
椿が青丸に気を取られている間に、重勝が太刀を引き寄せ周囲を窺う。青丸が暴れるのは主人に危険が迫っている時だと、彼は認識していた。
対象が椿なのか春正なのか、分からないのは歯がゆいが、重勝が護れるのは、近くにいる椿だけだ。迷いはない。
女中たちも重勝の動きを見て、椿を護ろうと彼女の近くに集まった。
「見つけたぞ。
「誰だ!?」
どこからともなく聞こえてきた女の声に、重勝が鋭く
返って来たのは、くすくすと哂う声。
椿は青丸を抱き寄せて周囲を見回しながら、屋敷の者たちは無事だろうかと考えた。
彼女がいる部屋は、屋敷の中でも奥のほうに位置する。ここまで末姫がやってきたのなら、屋敷にいた者たちはどうしているのか。
ぞっと寒気が背中を這い上がってくるが、椿は唇の裏を噛んで、不安を呑み込む。
「なんじゃ? 主君の奥方の顔を忘れるとは、不届き者よのう」
「末姫様!?」
襖が一気に燃え上がり、人影が姿を現す。それを見たとたん、女中たちが警戒を含んだ驚きの声を上げた。
金糸や銀糸を用いた豪華な御所解模様の打掛をまとうのは、かつて水嶌の屋敷に住んでいたこともある、末姫だ。
彼女は金の扇で口元を隠し、くすくすと楽しげに笑う。
椿はぐっと腹に力を込めると、末姫を睨み付ける。
「この者たちの主は、水嶌春正。そして春正の妻は、私のみでございます。あなた様は、蒲野様の奥方様でございましょう? お間違えなさりますな」
武家の嫁として――春正の妻として、椿は末姫の言葉を、聞き捨てるわけにはいかなかった。
「ええい! 黙りゃい! かように醜き顔で
「御方様、逃げましょう」
お鯨たちが叫び、椿を逃がそうと動き出す。けれど、すでに部屋は火に囲まれていた。
襖も何もなかったはずの、庭に面したほうにまで、炎の壁が出来上がっている。
若いお鯛が意を決して、炎の壁に飛び込んだ。しかし庭に抜けることなく、悲鳴を上げて戻って来くる。
「お鯛!?」
小袖に火が移ったお鯛は、床の上を転げ回った。女中たちはお鯛に着いた火を消そうと、腰に巻いていた打ち掛けを脱いで叩く。
「無様よのう。自ら火に入るとは、羽虫のようじゃ」
きゃらきゃらと哂う末姫を、椿は睨み付ける。
椿は胸の内が、焼けるように熱く感じた。彼女はこれほどの怒りを、今まで覚えたことがない。
だが怒りに任せて動けば、皆を巻き込んでしまうだろう。そんな冷静な思考も残っていた。
一歩前に出た椿は、重勝のすぐ後ろに立つと、小声で囁く。
「重勝殿、あの者の狙いは私のようです。私が動きますから、その隙に」
「なりませぬ」
重勝が焦った声で制止したが、椿は身を翻して駆け出した。末姫が立つ位置とは反対側の、さらに奥へと向かう襖に向けて。
「御方様!?」
女中たちが悲鳴を上げるが、椿は止まらない。すでに焼け落ちていた襖を、駆け抜ける。
お鯛と違い、彼女には火が燃え移らなかった。
「逃がすものか!」
末姫が叫び、追いかけていく。
椿しか目に入っていない末姫を、重勝が太刀を抜き放ち様、切り上げた。
「何!?」
重勝の口から、驚愕の声が漏れる。
彼が放った刃は、たしかに末姫を捉えていた。しかし、末姫は斃れることなく駆け抜けていく。そして彼の愛刀は、どろりと飴のように溶けていた。
「御方様! お逃げください!」
重勝の叫び声を聞き、椿は彼が、末姫を仕留め損なったことを知る。そこからは、ただひたすらに夢中で走った。
「ごめんなさい、青丸。あなたを巻き込んでしまって」
腕の中に抱えたままだった青丸に、申し訳なく思い謝れば、青丸から、ぴいっと元気な声が返ってくる。
まるで気にするなと言ってくれているようで、椿は強張る気持ちが微かに和んだ。
屋敷から庭へと出た椿は、そのまま庭伝いに表へ逃げようと考えていたのだが、足は止まってしまう。
庭は、燃えていた。
春正が丹精込めて育ててくれた藪つばきも、夏つばきも、全て、全て、燃えている。さらに振り返れば、屋敷のあちらこちらから、火の手が上がっていた。
「そんな……」
愕然と立ち尽くす椿の後ろには、末姫が迫る。けれど、もう逃げ場はなかった。どちらを見ても火の海で、選べる道は残っていない。
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