第41話 娘狐
「およねか? なんじゃ、久しぶりにそなたの声を聞いたのう」
末姫はよねに顔を向けて話しかけるが、彼女は答えない。
無視をされた苛立ちと、言いようのない気味の悪さが背筋を這い登ってきて、末姫は顔をしかめる。
その時、再び声が聞こえた。今度は先ほどよりも、はっきりと。
「おお、おお、可愛そうに。私の可愛い娘よ」
「誰じゃ!?」
怒鳴りつけて振り返るが、そこには誰もいない。
「憎いか? お前をここに閉じ込めた、春正が。憎いか? 春正の心を奪う、お沙羅の方が」
「誰じゃ?」
姿の見えぬ声に、末姫は徐々に腰が引けていく。無意識に、膝をにじってよねの側へと寄り、彼女の袖を握っていた。
「酷い娘だのう。母の声を忘れるとは」
「ひいっ!?」
座敷に炎が上がり、狐の姿を
「誰が母上じゃ!? 妾の母上は、お主のような化け物ではない!」
「ほんに、酷い娘だのう」
くつくつと哂う火狐は、前足を一歩進める。末姫はよねの袖を引っ張るが、よねはぴくりとも動かない。
「よね、動け。あの化け物を追い払え」
末姫の命令に、よねは答えなかった。それどころか突然燃え上がる。
「ひいっ!?」
末姫は転げるようにして、飛び退けた。手足ががくがくと震え、腰は抜けている。
よねから生じた炎は、火狐のほうに飛んでいく。彼女がいたはずの場所には、狐の躯があった。
「怖がらずともよい。それは妾が作ってやった、そなたのための眷属じゃ。もういらぬからのう。力を返してもらっただけじゃ」
また一歩、火狐が末姫に近付く。
「来るな! 来るな、化け物」
「ほんに、酷い娘だ」
火狐は哀しげに目蓋にしわを寄せた。けれども、すぐに口元に深い弧を描く。
「なれど、許そう。なにせお前は、私の大切な
火狐はとんっと跳ね上がると、末姫に襲いかかった。悲鳴を上げる間もなく、末姫の中に火狐が入る。
「やはり血を分けた体は、具合がいいのう」
◇
蒲野安武から春正に文が届いたのは、戦を終えた直正たちが戻って、間もない頃のこと。
無事に帰った足軽たちが、田畑の支度に励んでいる城下の外れを、早馬が城に向かってかけていく。
「蒲野安武が家臣、
城に駆け込むと、馬から転げ落ちるようにして降り、春正との面会を乞う。
春正は安武から急使が来たとの報せを聞いて、嫌な予感がした。とはいえ、まずは会わねばなるまいと、使者の下へ急ぐ。
「それがしが水嶌春正でござる。何用でありましょうか?」
「まずはこちらを」
差し出された書状を受け取り、目を通した春正の表情が、苦くしかめられる。
「ばかな。なにゆえに逃げられましたか? 蒲野様ともあろう御方が、まさか野放しにしておられたわけではありますまい?」
書状には、城の一部が焼け、末姫が姿をくらましたと認められていた。
「無論にございまする。特別に座敷牢を造り、厳重に管理しておりました。されどあの女狐め。座敷牢に火を放ち、あろうことか本丸まで燃やそうとしたのでございます」
舌打ちしそうなほどに顔をしかめた浮田は、悔しげに拳を握りしめる。
一方で、話を聞いた春正は、やはり娘のほうも狐の妖の力を受け継いでいたのだと、危機感を強めた。
だがそれならば、なぜ今まで力を使わなかったのかと、疑問が湧いてくる。
人ならざる力を持っていたのならば、水嶌の屋敷にいた頃も、蒲野に引き渡された時も、末姫の性格であれば火を操り、暴れそうなものだ。
「蒲野様は御無事でありましょうか?」
「幸いにも主は戦場にて、難を逃れておられます。城の被害も最小に食い止めておりますれば、大事はございませぬ」
浮田はそう言うが、座敷牢が燃え、本丸にも火を掛けられたのである。それなりの被害が出ているのだろうと、春正は言葉の裏を読む。
「末姫様は、水嶌殿を襲うのではないかと、主は案じておられました。此度のことは、当家の失態。必要とあれば援軍を送る旨、お伝えするようにと命じられております」
安武に貰われてからは、お松の方と呼ばれていたはずの末姫だが、浮田は主君の妻女と認めたくないのだろう。嫁ぐ前の名を使った。
それはさておき、女一人に対して援軍を出すとまで申し出られたことに、春正は末姫の恐ろしさを覚る。
「それほどでありましたか」
「母狐は寺を一つ焼いたと伺いましたが、よくぞ僧たちだけで、寺一つに抑え込めたと感心いたしまする。母と娘では力が違うのかもしれませぬが、あれは人の手に負えませぬ」
春正は尼僧が燃えるのを見ている。
お壼の方は、僧たちに抑え込まれたわけではない。目的であった椿を海に落としたことで満足し、寺から去ったのだろうと、春正は予測する。
そう考えると、安武の松浜城が無事であったのは、末姫の目的ではなかったからであろう。
では何が目的かと考えて、春正は拳を握りしめる。
己であればいいが、母狐同様に、椿を狙ってくるかもしれない。想像するだけで、身の毛がよだつ。
「あい分かり申した。わざわざお報せいただき、かたじけなく存じます。ところで、浮田殿は鸞龍という御方に、お心当たりはございませぬか?」
「鸞龍、殿でございますか? さて? それがしにお尋ねになるということは、長田様の縁者でございましょうか?」
「お壼の方様が、死の間際に、その名を言い残したそうです。『憎らしや、鸞龍』と。そこで息絶えたので、人の名であるのかも、はっきりいたしませぬ」
「はて?」
結局、浮田も鸞龍という名に思い当たる人物は浮かばず、この話はお開きとなる。
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