第38話 再応

 椿が水嶌の屋敷に戻ってから数日して、遅れて門前町を発った春正も、屋敷に戻ってきた。

 成貞から大丈夫だと伝えられていても、彼の体調が気掛かりだった椿は、春正の姿を見てほっと安心する。顔色はよく、体調が悪いようには見えない。


 春正は椿から一定の距離を置いて座ると、彼女を熱い眼差しで見つめた。しばらくして、感極まったように口を一文字に結び、まぶたを閉じる。

 大きく息を吐いてから、再び椿を柔らかな瞳に映した。


「触れるなと言うのなら、もう触れはせぬ。だからもう、どこにも行かないでくれ。私の手が届かぬところで、そなたに万が一のことがあれば、私の心の臓が持たぬ」


 すがるように、椿へ訴える。


「もうどこにも行きませぬ。私の浅慮でご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」


 椿は深く頭を垂れて謝った。

 身を起こさせようと、とっさに手を伸ばしかけた春正だったが、彼女に触れることなく、その手を握りしめて引き戻す。


「謝る必要はない。そなたは私の身を案じて、遠ざかったのであろう? 謝らねばならぬのは、感情に任せてそなたを追い込んだ、私のほうだ。どうか許してほしい」

「許すなどと。春正様を責める理由など、どこにありましょうか」

「では椿も、もう謝ってくれるな。私は迷惑だなどと、一度も思ったことはない」


 見つめ合う二人は、どちらからともなく、自然と顔を綻ばせた。

 止まっていた時は解け出し、動き始める。




   ◇




 水嶌家に戻ってから、椿は毎日春正と顔を合わせた。春正は一定の距離を保ち、決して彼女に触れない。

 それは彼の命を守るために必要なことであり、椿自身も望んだことだ。だというのに、彼女はもどかしい切なさを感じてしまう。

 身勝手な悩みに溜め息を落としつつも、椿は春正が隣にいる幸せを噛みしめる。


「椿、不自由はしていないか?」

「いいえ。よくしていただいておりますから」

「そうか。何かあれば、遠慮なく言うのだぞ?」

「ありがとうございます」


 そんな風に穏やかな日々が続いたのは、束の間のこと。草木が芽吹く前に、春正は戦に出かけていった。

 澄明を廃して、長田家を継いだ澄久に反発する勢力が、定期的に戦を仕掛けてくるのだ。その他にも、澄久の名が上がったことで、他国からちょっかいをかけられることもあった。

 澄久に仕える春正は、これらの戦いに参戦を余儀なくされる。


 そうして主だった男衆たちが戦場に出て、屋敷に残る者のほとんどが、女ばかりとなったある日のこと。青丸が、騒がしく鳴いた。

 椿は以前にも似たようなことがあったと、胸に不安の火を燻らせる。春正が戦場で重傷を負ったときも、青丸はこうして騒いだのだ。


 女中たちも、その日のことは知っている。そして椿がお壼の方に襲われた前日に騒いだ姿も、憶えていた。心配そうに手を止めて、鳥小屋のほうを見る。


 立ち上がった椿は、鳥小屋へと向かう。


「どうしたの? 青丸」


 椿をつぶらな瞳に映すなり、青丸は彼女を見上げてぴいっと鳴く。それから小屋の扉を開けてくれとばかりに、小屋の柵を突っつき始めた。


「外に出たいのね?」


 空を飛べぬ青丸は、鳥小屋から出ても逃げる心配がない。

 椿は小屋の扉を開けて、青丸を出してやった。

 外へ出た青丸は翼を広げて跳躍すると、子が母に甘えるように椿の胸元へ飛び込み、椿の顔をじっと見上げる。


「今日はどうしたの?」


 以前、春正が死地をさ迷った際は、青丸は木に登り、戦場の方角を見つめていた。しかし今回は、そうした行動はとらない。


「春正様に何かあったわけではないのね?」


 問えば青丸は、不思議そうに首を傾げる。

 やはり春正の身に何かがあったわけではないらしいと覚り、椿はほっと胸を撫で下ろした。


「驚かせて。困った子ね」


 指の腹で、青丸の頭をちょんっと小突く。

 まったく気にしていない青丸に苦笑をこぼすと、背を撫でながら部屋に戻る。

 普通の鳥のような柔らかな羽毛はないが、張りのある翼は、滑らかで気持ちよい。だから椿は青丸の背を撫でるのを、気に入っていた。

 温かな彼の体も、抱きかかえていると不安を吸い取ってくれる。


「御方様、青丸様のご様子はいかがでございましたか?」


 問うたのは、椿の護衛として控えている東重勝あずましげかつだ。

 彼は左半身に、火傷の跡がある。さらには椿が尼寺に籠っている間に、戦で左足を負傷しており、足を引き摺って歩く。

 戦場に出ることができない男が、武士であり続けることは難しい。彼も例に漏れず、一時は春正の側近の座から退いていた。


 それから得意の絵筆を取って生計を立てようと、都に上がり絵師に弟子入りする。けれども椿が還俗したのを切っ掛けに、春正に呼び戻された。

 戦となれば、城は手薄になる。椿を残していくことを心配した春正が、居合の名手であった彼を、椿の側に置くことを思い付いたのだ。


 走ることはできずとも、城の中で女一人を護る程度ならば、重勝にもできる。

 それに、幼いころから春正に仕えていたため、椿とも顔なじみであり、彼女が気を使うこともない。

 これほどの人材はあるまいと、満足そうに命じた春正に、重勝は喜んで承知した。

 一度は太刀を捨てたが、武士で在りたいという気持ちまでは、捨てきれなかったらしい。


「もう落ち着きましたよ。虫の居所でも悪かったのかしら?」


 椿の言葉を聞いて、部屋にいた女中たちから安堵の息が漏れる。重勝も表情を和らげたが、油断はしていなかった。

 彼は青丸が騒いだ過去の件から、何かが起こると予感し、さり気なく自分の太刀の鞘に指先を沿わせる。

 そこへ報せが入った。

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