第37話 決断
椿の中で、抑え込んでいたものが決壊した。熱いものが目から溢れ出し、頬を濡らしていく。
彼女とて、望んで春正の下から離れたわけではない。椿が側にいては、春正の命を脅かしてしまう。そう知ったから、身を裂く思いで離れたのだ。
けれど、距離を置いても、時間が経っても、春正に対する想いは
昨夕、春正に救われた時、椿は嬉しいと喜んでしまった。
自分に触れることで、春正が命を落としてしまうかもしれないというのに。
再び彼の姿を己の目に映せたことを、温もりを感じられたことを、魂が震えるほどに歓喜した。
その気持ちを夜の間に抑え込み、蓋をしたというのに、成貞の言葉で、容易く壊されてしまう。
「私は、春正様のお傍にいても、許されるのでしょうか?」
「無論にございます。殿がどれほどお沙羅の方様をお大切にしておられるか、水嶌の家中で知らぬ者はおりませぬ。ご安心してお戻りくださいませ。かならずや、お沙羅の方様も殿も、我々がお守りするとお誓いいたします」
椿の頬からぽたりと落ちた雫が、床板に染みを作った。
椿が成貞たちに護衛されて旅籠を発ったのは、その日の昼前のこと。
世話になった湊井寺や尼寺の者たちに、別れも告げずに発つことに思う節はあった椿だが、下手に顔を出してお壼の方に見つかれば、再び巻き込みかねない。
旅籠を発つときに、寺のほうに向かい深く頭を下げて、心の内で礼を述べる。それから、用意されていた駕籠に乗り込んだ。
「念のため、春正様は後から出立いたします。お沙羅の方様のお顔を見たら、ご自分の馬に乗せると言い出しかねませんから」
「まあ」
成貞の軽口に思わず噴き出した椿だが、否定はできない。
なにせ椿が水嶌の家にいた頃、春正は椿を自分の愛馬に乗せて、領地中を連れ歩いていたのだから。
胸に引っ掛かる一抹の不安を抱えながら、椿は瀬田へと続く街道を進む。
四年ぶりに足を踏み入れた瀬田の地は、以前にも増して活気にあふれていた。山の上に見える城も、椿の記憶より、ずいぶんと立派な姿に変わっている。
椿を乗せた駕籠は、かつて暮らした屋敷へと向かう。
「少し、寄り道をしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。構いません」
椿の了承を取った成貞は、城山のほうへ向かうよう、指示を出した。
一向は門を潜り、山道を登っていく。しばらくして籠が止まり、外へ出た椿は、視界に映る光景を見て言葉を失った。
白や紅の花を咲かせた藪つばきが、辺り一面を埋め尽くす。
「屋敷だけでは足りませんので」
成貞は呆れ交じりに苦笑する。
春正の椿狂いは、彼の活躍と共に噂となって広まっていった。その内に、遠方から珍しい藪つばきを携えて、売り込みにくる浪人まで現れる。
「武芸を見てくれと訪ねてくるのなら分かりますが、花を見てくれとやってくる武士など、他家では見られませんよ」
もっとも、藪つばきは菓子折り代わりで、春正に会うための口実でしかない。実際に水嶌家へ取り立てるかどうかは、実力や人となりを見て判断する。
面白おかしく話す成貞に、椿もくすりと笑ってしまう。
椿はあらためて、藪つばきに目を向けた。
春正はどのような思いで、これらの木々を植えたのだろうか。どのような気持ちで、眺めていたのだろうか。
一本一本の藪つばきから春正の愛情が伝わってきて、それと同時に、どれほど彼を苦しめたのかを、思い知らされる。
「私は、ずいぶんと身勝手なことをしてしまったのですね」
彼女の呟きは、風に揺らされた梢がさらっていった。
目尻に浮かぶ涙を人に見られまいと、椿は袖でそっと拭う。
「連れてきてくださり、ありがとうございました」
胸いっぱいに広がる感情が落ち付くと、椿は成貞に礼を言った。
再び駕籠に乗った椿は、ようやく水嶌家の屋敷に辿り着く。門前では、義弟の直正が出迎えてくれた。
「義姉上、お懐かしゅうございます。お元気そうで安心いたしました」
「直正殿も、お元気そうで何よりでございます。しばらく見ぬうちに、ますますご立派になられて」
直正に案内されて、椿は慣れた屋敷の中を進む。
庭を見やれば、藪つばきが幾本も植えられていた。葉の一枚一枚まで丁寧に拭き清められ、艶やかに輝いている。
「暇を見つけては、兄上自ら世話をなさっておられました。兄上は藪つばきに
悪戯っぽく告げる直正に笑顔を返しながら、椿は胸が熱くなるのを抑えられない。庭を眺める風を装って直正の視線から逃げると、唇の内側を噛んで、涙を呑み込んだ。
椿に用意されていた部屋には、かつて彼女に仕えてくれていた女中たちが揃う。懐かしい顔触れには、隠しきれない歓喜が浮かんでいた。
「御方様、お帰りなさいませ」
一斉に頭を下げる彼女たちに、椿は震えそうになる声を律して応える。
瀬田に戻ってきた以上、彼女は水嶌春正の妻であり、この屋敷の女主人なのだ。相応の振る舞いをせねばならない。
「留守の間、家を守ってくれて感謝します。皆、これからもよく、春正様と私に仕えてちょうだい」
「無論にござります。またお仕えすることができて、嬉しく存じまする」
顔を上げた女中たちの目元は、濡れて光っていた。椿の目も、耐え切れず赤く染まっていく。
「さ、御方様、お疲れでございましょう? 茶菓をご用意しておりますから、今日はどうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
「ありがとう」
「それでは義姉上、私はこれで失礼いたします」
「直正殿、案内していただき、ありがとうございました」
女ばかりになった部屋で、椿は彼女がいない間に起きた出来事を、顔なじみの女中たちから教えられた。
「殿様ってば、藪つばきの花を愛でるばかりか、青丸様を我が子のように可愛がっておられたのですよ」
「青丸は元気?」
「もちろんでございます。お連れいたしましょうね」
お
「元気にしていた? 青丸。私のことを憶えているかしら?」
青丸は、椿を見るなり翼を広げ、甘えるように籠越しながら身を寄せた。籠から出してやれば、すぐに飛びついてくる。
「お前は相変わらず甘えん坊さんね」
頭から背に掛けて包み込むようにして撫でると、気持ちよさそうに目を細め、もっと撫でろとばかりに、頭を掌に擦りつけてきた。
一しきり甘えて興奮が落ち付けば、今度は椿の膝の上で丸くなる。
「まるで赤子か猫ですね」
女中たちにくすくすと笑われても、青丸は知らん顔だ。その内に、気持ちよさそうに舟をこぎ始めた。
長く留守にしていたのが嘘だったかのように、椿は水嶌の屋敷に、すんなりと馴染んでいく。
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