第36話 嘆願
結局、お壼の方の襲撃などなく、夜が明ける。
椿は何事もなく一夜を過ごせたことを、御仏に感謝した。だがそれはつまり、お壼の方が、野放しになっているということだ。
いつまた狙われるか分からない。もう寺に身を寄せ続けるべきではないと、彼女は思う。
だからといって、火を操る妖を、椿が一人で相手取れるはずもない。
これからの身の振り方を考えると、どうしても気が重くなってしまう。
「お沙羅の方様、よろしゅうございますか?」
「ええ、どうぞ」
「失礼いたします」
尼寺は全焼。幸いにも死者はおらず、負傷者も軽い火傷で済んでいる。周囲の山に延焼することもなく、夜明け前には鎮火された。
「人をやって調べてみましたが、人はもちろん、狐の死骸も見つからなかったそうです。おそらく、お沙羅の方様を襲った妖は、どこかへ逃げ隠れたのでしょう」
「そうですか。教えてくれて、ありがとうございます」
それから成貞は、これはまだ予想でしかないがと前置きしたうえで、
「狐の妖は、もしやすると、お
と、彼の考えを述べた。
「お壼の方……。たしか、長田
「さようでございます。澄明を討ち取った際、城に火を放たれ、逃げられてございます」
狐が人に化けて大名の側にいたなど、椿には信じがたい話である。けれど、成貞は平然とした顔だ。
「有力な武将の側に妖がいることは、珍しくないのでございます。優れた武人ゆえに妖が力を貸すのか、妖が力を貸すがゆえに武将として名を馳せるのかは、それがしには分かりかねまするが」
苦い顔をした成貞の脳裏には、かつて春正を瀕死に追いやった、
納得した様子の椿を、成貞はじっと見つめる。
彼女の言葉を待っているようにも見えるし、何か言いたいことがあるのに、飲み込もうとしているようにも見える。
彼が求めていることが、椿には分かった。
七つの時から側にいたのだ。春正ほどではなくとも、考えていることは読める。戻って来いと、訴えているのだ。
椿は成貞から、そっと視線を逸らす。
彼女の拒絶を前にして、成貞は目蓋を伏せた。一つ息を吐いてから、視線を外へと向ける。
昨日の火事のせいで、町はいつもより騒がしい。
「春正様は、末姫様に一切手を触れておりませぬ。娶ったのは、そうせねばお沙羅の方様に危害を加えると、脅されたからでございます」
伝えられた真実に、はっと顔を上げた椿は、苦しげに目を伏せた。
逃げ出すようにして春正の下を去ったというのに、彼は彼女を見限ることなく、守り続けていたのだ。
椿は春正が末姫を娶ったと耳にした際、裏切られたと感じてしまった。彼の気持ちを知らぬまま、身勝手な感情を抱いた己の醜さに、彼女は胸を掻き毟りたくなる。
「これは、私の独り言です。我々武士は、いつ命を落とすか分かりませぬ。今日元気であった友が、明日には命を落としていることもございます」
椿が離れているからといって、春正が生き続けられるとは限らない。いつ戦で命を落とすかしれないのだから。
考えないようにしていた現実を突きつけられ、椿は唇を噛んだ。
「生きることへの執着が弱き者は、命を落としやすうございます。生きることへの執着が強き者は、思わぬ窮地からも、生還することがございます」
視線を戻し、ひたと椿を見つめる成貞の目は、言葉以上に訴えかけていた。
帰って来いと。春正の下に戻ることを、恐れるなと。彼をこの世に留める、
「水嶌家は、大きくなりました。なれど、殿は一向に嬉しそうには見えませぬ。穏やかな表情をなさりますのは、
春正は椿のためにと、幾本もの藪つばきを庭に植え、珍しい苗があると聞けば取り寄せていた。
その行動は、椿が水嶌家を出て行ってからも変わらない。むしろ、椿がいなくなってからのほうが、のめり込んでいる。
会うことすら叶わぬ、愛しい人との縁を繋ぎとめるように、彼は藪つばきに執着した。
「屋敷は広うございます。顔を合わせとうない者とは、合わさずとも過ごせます。女中たちは悔いておりました。あの日、お叱りを受けても殿をお止めし、お沙羅の方様をお助けするのであったと」
淡々と喋る成貞の声が、椿の心を揺り動かす。
春正の身を案じて、水嶌家から飛び出した椿だが、長年仕えてくれた女中たちの気持ちにまで、考えが及んでいなかった。
己の傲慢さを省みながら、一人一人の顔を思い出していく。
幼いころから、母や姉のように接してくれた、大切な人たち。自然と感謝と望郷の念が湧いてくる。
けれど、椿は一時の感情に呑まれるわけにはいかない。細くとも、つながっていた縁の糸を断ち切るために、彼女は
「次に春正様が私に触れれば、今度こそ、春正様の命は失われるやもしれません」
春正の命が懸かっているのだ。主君を大切に思う成貞ならば、引き下がるだろう。
椿は正しい選択だと思いながらも、胸を引き裂かれるほどの痛みを覚えた。奥歯を食いしばり、苦痛をやり過ごす。
それなのに、成貞は引き下がらない。
「殿は御覚悟の上で、こちらに参られました」
強い炎を燃やす瞳で、椿をひたと射抜く。
「どうか殿を信じてくださいませ。あの御方は、お沙羅の方様を残してこの世を去るなど、なさりませぬ。お沙羅の方様がお傍にいてくださるならば、きっと閻魔大王さえ脅して、生き続けましょう」
椿の顔が、くしゃりと歪む。
逃げているのは、彼女だけだ。
自分の手で、愛する人の命を奪うかもしれない運命が恐ろしくて。目の前で彼が果てるかもしれない未来に、耐えられなくて。
耳をふさいで、椿を求める春正の声を閉め出した。
「殿がお沙羅の方様に触れようとなされたなら、我々が全力でお止めいたしましょう。ですからどうか、お戻りくださいませ。お沙羅の方様を失ってからの殿は、見ておられませぬ」
成貞はその場に手を突き、額づく。
部屋の外で待機し、聞くともなしに会話を耳にしていた者たちも、祈るように目を閉じた。
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