第33話 再会
口元に笑みを浮かべながら、椿は海の底に沈んでいく。
あの時と違って、水面は初めから赤く染まっていた。炎が海まで落ちているのか、日が沈みかけて染まったのか、すでに椿に判断する力は残っていない。
――もう春正様は、助けに来てくださらない。
朦朧とする意識の中で、彼女は現実を思い出す。
天に向かって伸ばしていた手から力が抜け、まぶたが閉じていく。けれど、その手をつかむ者があった。
まさかと顔を上げた椿の瞳に、いつも夢に見ていた、彼の顔が映る。
くしゃりと顔を歪めた彼女の目尻から零れた涙は、海の水に混じって消える。
腕から伝わる、頼りがいのある力が強くなり、彼女の体は、懐かしい温もりに包まれた。そして、海面へと浮上する。
「椿! 無事か? 椿!」
空気が肌に触れたとたん、椿の耳に、愛しい人の声が飛び込んで来た。
「春正様」
「椿、間に合ってよかった」
愛しくてたまらないとばかりに、春正は微笑んだ。彼女が本当にいるのか確かめるように、椿の頬を優しく丁寧に撫でる。
「よかった。心の臓が止まるかと思った」
もう一度強く椿を抱きしめた春正の、息は荒い。熱い吐息を首筋に受けた椿は、喜びから一転して、恐怖の底に突き落とされた。
春正は椿に触れるたび、焼ける痛みを覚える。次は命を落としかねないと、彼女は夢に現れた童から、警告されていたのだ。
「なりませぬ。離してください、春正様!」
慌てて身を離そうとするも、水の中では思うように体が動かない。海水の冷たさで、全身がかじかんでいたせいもあるだろう。
どんなに腕を突っ張ろうとも、春正の体はびくともしなかった。
「もうしばらく、じっとしておれ。すぐに岸へ連れて行ってやる」
「そのようなことは、よろしいのです。どうかお放しください」
悲鳴にも似た声に対して、春正は悲しげに笑むと、椿を抱えたまま岸に向かって泳ぎ出す。
椿の目尻からは、涙が止まらない。このまま春正の命が尽きたらと思うと、怖くて、恐しくて、体が震えた。
春正は器用に岩を避けながら、岸へと泳ぐ。
「殿! ご無事ですか!?」
岩だらけの海岸には、いつの間にやら成貞たちが駆けつけていた。
「先に椿を」
「はっ」
冷たい水にも躊躇わず、成貞たちは海に入り、椿を担ぎ上げる。そのまま椿は、安全な場所まで運ばれた。
一度地面に下ろされると、春正の家臣たちが自らの衣を脱ぎ、椿にかけていく。彼女を少しでも寒さから守ろうとしているのだろう。
「成貞殿、春正様は」
「ご安心くだされ。殿はそうやすやすと三途の川を渡るほど、素直な御方ではありませぬから。それより、どこかお怪我はございませぬか?」
「大丈夫です」
答えた椿は心配そうに海を見、それから視線を上げて、尼寺を見る。
赤く色づいている空を背にしても、寺を燃やす炎は、その威力を見せつけていた。
「寺の方々は、御無事でしょうか?」
「そちらにも人を走らせておりますから、すぐに確認が取れましょう。それよりも、ここでは冷えまする。いったん宿へ向かいましょう。詳しいことはそちらで」
成貞は椿を背負うと、数人の男たちと共に駆けていく。
椿が運ばれて行かれたのは、門前町にある旅籠の一つだった。
先触れを出していたのだろう。案内された部屋には、炭を熾した火鉢が幾つも並ぶ。
椿は宿の女たちによって、乾いた小袖に着替えさせられた。更に温めた石を布で包んだ、
冷え切っていた椿の体は、徐々に温もりを取り戻していく。
湯を頂いて、ようやく人心地着くと、成貞が顔を出す。
「尼僧たちは全員避難しており、無事とのことです。火の粉で火傷を負うた者はいるようですが、大したことはないとのことでございました。お沙羅の方様を、こちらで保護したことも伝えております。安心してお休みください」
「教えてくださりありがとうございます。それで、春正様の具合は?」
薄情だと思いつつも、椿は共に生活をしていた尼僧よりも、春正の身が心配だった。
「大丈夫でございますよ。岩で少々足を切っておられましたので、先ほど手当てを済ませました。お会いになりますか? お顔をお見せになれば、お喜びになるでしょう」
成貞の勧めに、椿は怯んだ。
会いたいかと聞かれれば、会いたいに決まっている。水嶌の家を出てから、一日たりとて、彼のことを思い出さぬ日はなかった。
我ながら未練たらしいと思うが、春正を想う気持ちだけは、どれほど御仏に念じても、消えることなく残っている。
けれど、会うわけにはいかないと、彼女は理解していた。
会えば傍にいたくなる。傍にいれば触れたくなる。触れれば春正を蝕んでしまう。
だから、彼女の答えは決まっていた。
「ご無事ならばよいのです。それよりも、尼寺で見たことをお話しします」
春正と会おうとしない椿に、成貞は釈然としない表情を見せる。だがすぐに切り替えて、聞く姿勢を取った。
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