第32話 人魚

「椿は、あの岩の上にでも座っているか。うむ、それがいい。そうしよう」


 春正は一人で喋ると、さっと椿を抱き上げて、波打ち際近くの岩に運ぶ。

 彼の行動に驚いた椿だったけれど、その拍子に顔を上げたせいで、二人を眺める家臣たちの表情を見てしまった。

 にやにやと笑う彼らを見たせいで、ますます赤くなってしまい、椿は砂を見つめることしかできない。

 そうこうしている内に、彼女は岩の上に下ろされた。


「いいか、海は危険が多い。一人で勝手に動いてはいけない。何かあれば、すぐに私に声を掛けなさい」

「はい」


 いつもより神妙な声を出す春正に、椿は表情を引き締めて頷く。

 春正の表情や声には、照れ隠しの意味合いが、過分に含まれていたのだけれど、椿は気付かない。言葉通り、海は危ないのだと、心に留め置く。


「私はこれから、妻のために馳走を獲ってこよう。期待しておいてくれ」

「楽しみにしておきます」

「うむ」


 大きく頷き返した春正は、表情をぱっと晴れさせて、家臣たちの下に駆けて行った。

 裾をからげた足を海の水に浸けた家臣たちを、春正が指揮をして動かす。

 少年たちは真剣な表情をして水の中を覗き込んでいたかと思えば、急に動き出し、次いで残念そうな声が上げて、天を仰ぐ。

 そんなことを幾度か繰り返し、歓喜に満ちた賑やかな声が上がった。

 何事が起きたのかと、椿は凝視する。

 すると一人の家臣が、両手で抱えるほどの魚を手にして、空高く掲げた。


「椿! 見ておるか?」

「はい。大きなお魚ですね」

「後で食べさせてやるから、待っておれ。獲れたては美味いぞ」

「楽しみにしております」


 手を振る春正に手を振り返し、椿は花が綻ぶ笑顔で彼らの様子を見物する。

 男たちが魚を獲ることに熱中する間に、潮が満ち、気付けば椿が座る岩の周りは、海水で囲まれていた。

 岩の下に水はなかったはずなのに、いつの間にか水際の位置が変わったことに、椿は驚く。

 しかし深い部分でもくるぶし程なので、裾をからげれば歩いて戻れる深さだ。不思議に思いはした彼女だけれども、それだけだった。


 椿はそんなことよりも、屋敷では見られない、表情をくるくる変えながら声を上げて笑う春正を、目に焼き付けておきたかった。

 夢中になっている春正たちの、邪魔をしたくなかったという思いもあったかのしれない。

 海を知らない椿は、しばらく待てば水は元に戻るだろうと考え、春正に声を掛けなかった。


 けれど彼女の思いとは裏腹に、水嵩は徐々に増していく。膝を超えるほどになると、椿も楽観視していられなくなった。

 春正を呼ぼうと顔を上げたとき、とぷりと沖側の水面が音を立てる。


 魚だろうかと、岩に手を突いて水面を覗き込んだ椿は、海の中から彼女を見上げる女と、目が合った。

 赤みがかった黒い髪をたゆたわせ、にまりと笑う女の口には、魚と同じ、細く尖った歯が並ぶ。

 上半身は人間、下半身は魚の姿をした妖、人魚だ。

 椿が悲鳴を上げかけると、人魚が海面から飛び上がった。驚いて声を失った椿の腕を、水かきが付いた手が捕む。そして、海に引きずり込んだ。


 海水の冷たさに椿が驚いたのは、一瞬のこと。空気の代わりに鼻や口から入って来た海水に、彼女は混乱した。

 鼻の奥がつんっと痛み、口や咽も、塩辛さでひりりと痛む。

 咽に入り込んで来た塩水を吐き出そうと、体が反射的にせき込んだことで、さらに海水が入り込み、彼女から空気を奪っていった。


 ――苦しい。助けて。


 椿は人魚に捕まれていないほうの手を伸ばし、空を見上げる。

 揺れる水面越しに見えた青い空は、きらめきながら揺らめく。

 すでに意識が朦朧としていて、感覚が鈍っていたのだろう。苦痛を忘れて、椿はうっとりと見惚れた。

 伸ばしていた腕から力が抜け、波に任せて揺れる。虚ろになった椿の瞳から、光が消えようとしたとき、彼女の揺れる手に力が加わった。


 今度はなんだろうと、椿はぼんやりと視線を動かす。視界に映ったのは、怒った顔をした春正だった。

 水嶌の家に嫁いでから一度も、椿は春正が怒ったところを見たことがない。彼はいつも穏やかで、たまに眉を怒らせることはあっても、すぐに解れる。

 だから柔らかな瞳を鋭くして睨み付ける彼の顔を見て驚き、その拍子に、失いかけていた意識が戻った。


 春正に握られた腕が、ぐいっと引っ張られて、椿の体が彼のほうに近付く。すると、揺れる空の色しかなかった海の色に、朱が混じった。

 それが何の色なのか、椿には確かめられない。

 驚愕と安堵で、一時的に意識が明瞭になったとはいえ、彼女の体は限界がきていたから。


 目蓋が重くて、目が閉じていく。自分の体なのに、手足の自由は利かなくて、胸も頭も痛い。椿は何も聞こえず、何も見えなかった。

 もう眠ってしまいたいと、抵抗をやめようとした彼女の顔に、暖かな空気が浴びせられる。


「椿! しっかりしろ、椿! 椿!」


 春正の声が、彼女の名を呼んだ。悲鳴に似た叫び声で、何度も、何度も椿を呼び、彼女の体を強く抱きしめる。

 肌を通して伝わってくる温もりが、椿の意識を繋ぎとめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る