第31話 泡沫
飛んできた火の玉を、椿はとっさに横に交わす。しかし火の玉は彼女をいたぶるように、次々と飛んでくる。
「憐れよのう。まるで羽虫のようじゃ」
雅に笑うお壼の方は、ひらり、ひらりと扇を動かし、裏庭を火で埋めていった。
椿は必死に逃げ惑う。すでに逃げ場などないはずなのに、火が彼女を焦がすことはなかった。
「なぜじゃ? なにゆえに当たらぬ!?」
痺れを切らしたお壼の方が、顔を苦々しく歪めて、喚き出す。開いた扇を振り上げると、一際大きな火の玉を作り上げた。
さすがにもう海に飛び込むしか、椿に逃げ場はない。
「これで最期じゃ。焼け死ぬがいい」
お壼の方が、扇を持つ手を振り下ろす。
火の玉が迫り来て、覚悟を決めた椿は、崖を蹴って海へと飛び込んだ。体を打ち付ける激しい痛みが襲い、直後に全身を刺す、冷たい水が責め掛かる。
手を動かして水面に上がろうとするが、法衣が水を含んで重くなり、まともに水を掻くことすらできない。
こぽりと、椿の口から泡沫が漏れた。水晶玉のように煌めきながら、空へと昇り光の中に溶けていく。
見惚れている場合ではないのに、美しいと感じてしまった椿の視界は、揺らめき滲んでいった。
以前にも、この光景を見たことがあったと、椿は懐かしく思い、うっすらと口元を綻ばせる。
あれは、秋月の家に嫁いでしばらくした、夏のことだ。
椿が生まれ育った三谷の地には、海がない。それを知っていた春正が、嫁いで間もない椿を、海に連れて行ってくれたのだ。
川や池などとは全く違う、どこまでも続く水の海原。寄せては返す、摩訶不思議な波。
春正が操る青鹿毛の上から、椿は目を丸くして海を見つめた。
「気に入ったか?」
「はい。素晴らしいものを見せていただき、ありがとうございます」
「もっと驚かせてやろう。波打ち際まで行くぞ」
海岸近くの松に青鹿毛の手綱を結ぶと、春正は腰に下げていた太刀を外す。それから草履や袴まで脱いだ。
彼に従ってついてきた、春正と変わらぬ年頃の家臣たちも、同じように草履と袴を脱いでいく。
どうやら海に入って遊ぶらしいと、椿は素早く理解した。
三谷に海はないが、川はある。だから川遊びに興じる童たちの姿は、何度か見ていたのだ。
遊びに興じる、いつもと違う春正の姿を見物させてもらうのも、楽しそうだと思った。
けれど、
「草履は脱いでおけ」
と、春正は椿にも脱ぐよう命じたものだから、彼女は驚いて目を白黒させてしまう。
川遊びをする娘がいないわけではない。けれど屋敷の奥で大切に育てられてた椿には、そんな経験がなかった。
外ではしたなく足を晒すなど、父母や乳母に知られれば、雷を落とされただろう。
とはいえ、憧れがなかったわけではない。
楽しそうに遊ぶ童たちを見て、一度でいいから遊んでみたいと思っていたのだ。なにせ彼女はまだ、七つだったのだから。
「私も、海に入ってよろしいのでしょうか?」
春正に問うた椿の頬は、興奮で紅潮していた。
「入りたいのか? それならば、また別の日に来よう。泳ぐ準備はしておらぬからな。今日は我慢してくれ」
夏が終わるまで、まだ日がある。また連れて来てやろうと、春正は爽やかに笑う。
春正の返事を聞いて、椿は肩を落とすと同時に、不思議に思い目を瞬いた。水に浸からぬのなら、なぜ草履を脱ぐのだろうかと。
とはいえ夫となった人の言葉だ。椿は小首を傾げながらも、言われた通りに草履を脱ぐ。すると春正が背を向けてしゃがんだ。
「自分で歩けます」
「椿の足の裏は柔らかいからな。石や貝殻を踏めば、怪我をしかねん。さ、乗りなさい」
妻となったのに、子ども扱いされるのが嫌で断れば、春正は嫌な顔一つせず、彼女が納得するよう理由を説明する。
海を知らない椿は、なにやら危険な物があるらしいと知り、素直に春正の背中に体を預けた。
家臣を一人、馬と荷の見張りに残し、春正たちは海に向かって進む。
「春正様は、大丈夫なのですか?」
「私は鍛えているからな。この程度で怪我などせぬよ」
椿の問い掛けに一つ一つ丁寧に答える春正は、先ほど彼女が疑問に思ったことにも答えをくれた。
「草履を履いたまま海に出れば、砂が入って駄目になる」
春正の背中で視線を下げた椿は、なるほどと納得する。
細かい砂は、藁で編んだ草履の目に入り込み、傷付けてしまう。濡れるから草履を脱いだわけではなかったのだ。
「春正様は、海によく来られるのですか?」
「季節にもよるが、夏は何事もなければ、毎日のように来るな。鍛錬になるし、腹が減れば魚や貝を獲って食べればよい。海ほど便利な場所はないぞ?」
砂場を走ったり、泳いだりと、人も馬も体を鍛えるために利用するのだと、春正は語る。
「ほら、着いたぞ。下りてみるか?」
「はい」
波打ち際より少し手前で、椿は砂浜に足を付けた。
土踏まずや指の間にまで砂が潜り込む感触に驚いて、椿は春正の腕に縋って足を浮かせてしまう。
「何か踏んだか? 見せてみろ」
とたんに春正が血相を変えてしゃがみ込み、椿の足を持ち上げようと手を伸ばした。
「大丈夫です。道や床に立つのと違って、くすぐったくて、少し驚いただけです」
慌てて椿が言い訳すると、顔を上げた春正がほっと息を吐きながら、柔らかく破顔する。その表情を見て、椿は真っ赤になってしまった。
それを見た春正はきょとんと瞬いて、それからどう解釈したのか、負けじと真っ赤に顔を染める。
「すまない。女人の足に触れるなど、どうかしていた」
「いえ、夫婦ですから」
「そうだな。夫婦だからな」
お互いに耳まで真っ赤にして、椿はうつむき、春正は横を向く。
そんな初心な主夫婦のやり取りを見ていた、若い家臣たちまで、どことなく気恥ずかしそうな顔をしてしまう。
いそいそと海に向かい、離れた所からにやにやと見物する家臣たちを睨み付けた春正は、取り繕うため咳払いをした。それから、何かを探すように首を左右に動かす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます