第30話 妖狐

 さらに月日は流れゆく。

 年が変わり、一月ほどが過ぎた頃。三日続けてしんしんと降り続けた雪が、庭も寺の屋根も白く染めていた。常緑の竹は、枝に積もる雪の重さに耐えかねて、首をもたげる。


 凍るように冷たい水で、かじかむ手に息を吹きかけながら、その日も椿はお堂の清掃をしていた。心を込めて、一拭き一拭き、壁や床を清めていく。

 いつもと変わらぬ日常に、異変が起きたのは、そろそろ掃除を終えようとした頃だった。

 お堂の外から悲鳴が上がる。


「なにかしら?」


 椿が顔を上げると、外が真っ赤に染まっているではないか。

 慌てて外へ走り出るが、尼寺は、すでに火に包まれていた。木造ゆえに、火事となれば火の回りが早い。とはいえ、あまりに急激すぎる。


「早く外へ!」

「門のほうへ向かいなさい!」


 尼寺の敷地から出るには、表門を通らねばならない。奥庭の先は絶壁だ。

 炎から逃れようと奥に向かえば、冬の荒れた海に飛び込むしかない。海から突き出る岩を運よく避けたとしても、冷たい水に、手足の動きを封じられ、溺れてしまうだろう。

 燃え上がる尼寺から、尼僧たちが逃げていく。


 椿も門に向かって、火の中を駆ける。玄関に繋がる廊下を曲がると、見かけぬ女が立っているのが視界に入った。

 早く逃げるよう叫ぼうとした椿はしかし、声を出すことなく足を緩め、止まってしまう。

 女の出で立ちが、あまりに場違いであったから。


 あでやかな緋色の打掛には、豪華な御所解模様の刺しゅうが施されている。宮中絵巻にでも出て来そうな美しい女は、踊る炎に囲まれているというのに、哂っていた。

 かついだ小袖の下から覗く、赤金色の目は、嬉しそうに弧を描く。まるで御馳走を前にしたかのように、赤い舌が、ちろりと唇を舐めた。


 もしもここに澄久がいたならば、すぐに彼女が誰であるか、気付いただろう。長田澄明の側室であり、末姫たちの母である、おこんの方だと。

 彼女は澄明が討ち取られた城から、一人逃げ延びて、行方が分からないままだった。


 そんなことなど露とも知らない椿は、場違いな女の姿に本能的な恐怖を感じ、踵を返して奥へと逃げる。


「どこへ行く? 憎き女の、形見の宝」


 お壷の方は走る椿の後ろを、着物の裾も乱さずに、廊下を滑るようにして迫ってきた。


「どなたかと、お間違えでは?」

「いいや。そなたは憎きたちばなの形見、澄久のめかけであろう?」


 おきつの方とは、澄明の前妻であり、澄久の母である女性だ。


「誤解です。私は澄久様と、そのような関係ではございませぬ」


 なぜそのような勘違いが起きたのか。椿は頭を抱えたくなった。彼女の心は今も昔も、ただ一人に向けられているのだから。


「偽るな! 何度も逢い引きをしていたそうではないか。狐どもから聞いておる」


 お壷の方が被いでいた小袖が風に飛ばされ、頭部が晒される。そこにあったのは、尖る狐の耳。

 どうやら彼女は人間ではなく、狐の妖だったらしい。


「違います。幾度かお会いしたのは確かですけれども、そのようなふしだらな関係ではございませぬ。そもそも、私の顔をよくご覧になってください。このような女子おなごを、澄久様ほどの御方が相手にするとお思いですか?」


 椿の顔には、火傷の跡がある。未だに怖がる子供や、気味悪がる人がいて、あまり表に出ることができずにいるのだ。

 けれど、そんな理屈は、お壼の方には通じなかった。


「澄久の趣味が変わっておることは、有名じゃ。側に置いておる安武など、蝦蟇蛙がまがえるの如き顔。還俗してから気に入りの水嶌も、焼け崩れておるという噂ではないか。そういう顔が好みなのであろう」


 蒲野安武に会ったことはない椿だが、噂だけは水嶌の家にいた頃に聞いていた。お壼の方の言う通り、美形というには遠い顔立ちだという。

 そして春正は美男子なのだが、椿が水嶌家を出てからも、ずっと顔を隠していたため、焼けただれた醜悪な顔だと囁かれている。


 とんでもない誤解であるが、だからこそ、椿は反論の言葉に窮してしまう。どう言えば彼女の誤解を解けるのか、思い浮かばなかった。


「澄明様の心を奪った憎き橘! 息子のほうは澄明様の血が流れておるから生かしてやったのに、あろうことか澄明様と我が子たちの首を奪うとは! そなたを殺して、澄久にも愛する者を失う苦しみを、味わわせてやろうぞ」


 逃げる先に火の手が上がり、椿は慌てて足の向きを変える。誘導されるように逃げ込んだ先は、先ほどまでいたお堂だった。

 椿はそのまま走り抜け、奥庭に逃げる。けれど、その先に在るのは切り立った崖だ。


 下は海なので、運がよければ助かるかもしれない。しかし荒れる冬の海。

 波に襲われ、岩に打ち付けられれば、ひとたまりもないだろう。冷たい海の水で、凍え死ぬかもしれない。

 どうしたものかと悩む椿の後ろから、お壷の方が迫ってくる。


「もう逃げぬのか?」


 お壼の方は金の扇を広げ、口元を隠していた。炎を映して赤金色に輝く扇の下では、狐の口が哂う。もう一方の手に持つ扇を振るうと、火の玉が現れ、椿に向かって飛んできた。

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