第29話 来訪

 世俗から離れている椿の耳にも、長田澄明が討たれたことは耳に届いた。

 澄久の話から、その件に春正が関与していると推察していた椿は、彼の無事を祈る。体はもとより、心のほうも心配だった。

 椿の知る彼ならば、謀反になど加わらなかっただろう。なぜ加わったのか、どのような心境の変化があったのか。それを考えると、気持ちが落ち着かない。


「春正様」


 御仏の顔を眺めながらも、浮かぶのは春正の顔ばかり。

 これではいつになっても煩悩を捨て去ることはできなさそうだと、椿は苦く口元を歪めてしまう。


 長田家の乱は、長田家が治めていた地域はもちろん、各地に影響を与えた。そこここで戦火が上がり、寺にも救いを求める者が押しかけている。

 尼寺で世話をするのは女ばかりだが、他にも煮炊きなどに駆り出されることが増えた。

 忙しく働いている内に月日は流れ、季節は春から夏へと移り変わる。

 薫風が青々とした梢を揺らしながら通り抜けていく小道を、椿は登っていく。辿り着いた先の湊井寺では、かつて雨洗と名乗っていた武士が待っていた。


「久しぶりですね」

「雨洗様。お元気そうでなによりでございます」


 今は長田澄久と名を戻した彼は、実の父を討ち、長田家を継いだ。その後に続いた内外の戦でも勝ち星を重ね、着々と名を広めている。


「お噂は耳に挟んでおります。ご活躍のほど、お慶び申し上げます」

「ありがとう。君の夫君の功績が大きいよ。まったく、父と妹は、とんでもないものを叩き起こしてしまったらしい」


 柔らかな微笑を保ちつつも、澄久の眉は正直だ。きゅっと身を寄せ合わせて、苦労を嘆く。

 もちろん、椿の耳にも、春正の噂は届いている。

 細かい部分までは入ってこぬが、それでも寺を訪れる者や、町に出かけた者たちから、話を聞くことがあった。


「獅子奮迅と言えば聞こえはいいが、あれは鬼だよ」


 澄久は、世俗を離れていた彼を引きずり出して、長田家の当主に据えた男の顔を思い浮かべたのか、苦く顔を歪める。

 彼が目にした水嶌春正という男は、椿から聞いていた話とは、全く違っていた。澄久を慕う、蒲野安武や他の男たちが言っていた通り、血も涙もない冷徹な男に見えた。


 現に春正は、澄明を討つのに邪魔になるとして、先に実の親を隠居させている。

 そして容赦なく、澄明や彼に与する者たちを討ち果たし、妻として迎えていた末姫までも、安武に礼として差し出した。

 たとえ心が他の女にあっても、一時は夫婦として、共に過ごした間柄だ。わずかでも情があるはずだと考えていた澄久は、それが誤りであると、春正の末姫に向ける目を見て悟る。

 春正の目には、殺意しか浮かんでいなかった。


 もしも安武が協力する条件に末姫の身柄を入れてなければ、彼女は澄明より先に、命を失っていただろう。

 澄久にとっては末姫も可愛い妹。結果として彼女の命を救ってくれた安武に、感謝した。


 とはいえ、そのことで春正を恨む気持ちなど、澄久にはない。

 椿と直接会って話したことで、彼女と春正が、どれ程仲睦まじい夫婦だったのか、理解している。

 そして末姫が仕出かしたことは、家臣たちから聞いていた。

 双方の話を含めて考えれば、末姫が春正をどれほど苦しめたか、容易に想像できる。それだけに、彼を責める気にはなれなかった。


「私には、死に場所を求めているようにも見えるがな」


 澄久の言葉を聞いた椿は、苦し気に顔を歪める。

 春正を蝕む苦痛から解放するために、彼の命を散らさぬために、椿は愛しい夫の下を去った。それなのに、春正は救われていないというのだから。


「春正様は、お元気でしょうか?」


 もっと聞きたいことは、山のようにあっただろうに。椿が口にできたのは、そんな他愛のない問いだった。

 彼女の耳まで届く、春正にまつわる噂は、どれもかつての朗らかな彼と、あまりに重ならない。椿には、見知らぬ他人の話を聞いているように思えてしまう。

 その事実は、彼女の心を苛んだ。

 離れていても、繋がっていられると信じていた二人の心は、とっくに縁が切れてしまったのだ。そう、突きつけられている気がしたから。


「ああ、疲れを知らぬかのように働いているよ」


 表情を緩めて答えた澄久は、すぐに顔を引き締め、真剣な眼差しを椿に向ける。


「椿殿。還俗して、水嶌家に戻る気はないかい?」

「申し訳ありませんが、それはできませぬ」

「末姫ならば、すでに離縁して他家に嫁がせている。もう、二人の仲を裂こうと考える者はいない。遠慮することはないのだよ? もしも周囲の目を気にしているのなら、私の養女にしてもいい。そうすれば、あなたを攻撃する者はいないだろう。妹の不始末を、取らせてはもらえぬだろうか?」


 澄久からの申し出は、破格の待遇だ。けれど椿は、首を横に振るしかなかった。

 春正が彼女に触れれば、今度こそ命を失ってしまうかもしれないのだから。


「申し訳ありません」


 深く額ずいて、許しを乞う。

 残念そうに息を吐いた澄久は、からりと表情を変えると、


「そうだ。南蛮の商人から、珍しい菓子を手に入れたのだ。よければ尼寺の皆で食べてくれ」


 と、持ってきた手土産を差し出した。


「まあ、大層なものを、ありがとうございます。尼僧の皆様も、喜ばれるでしょう」


 寺を辞去する澄久を見送って、椿は尼寺に戻る。

 それから澄久は、時折りふらりと湊井寺にやってきて、椿を呼び出すようになった。他愛ない話をしては、土産を残し帰っていく。

 口には出さないけれど、椿が春正の下へ戻ると言い出すのを、待っているのは明らかだった。

 彼の気持ちを察しながら、椿は気付かぬ振りを続ける。

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