第34話 報告

 椿は一度呼吸を整えてから、口を開く。


「狐の妖が出たのでございます。火を操り、尼寺を燃やしました。長田澄久様のことを恨んでいる様子で、私を狙っておるようでした」

「お沙羅の方様を? なにゆえでございましょうか?」


 問われて椿は、言葉に詰まる。

 澄久の想い人と間違われたなど、春正の耳には入れたくない。しかし伝えねば、お壼の方の目的が伝わらず、春正たちを混乱させてしまうだろう。


「澄久様と、幾度かお会いしたことがありましたので、親しい者だと勘違いしたようです。私を弑して澄久様のお心を苦しめるのだと、そう申しておりました」

「それはまた、とんだとばっちりでございましたね。狐の妖につきましては、まだ報告が上がっておりませぬ。今夜は我々が護衛しますので、ご安心してお休みください」


 成貞たちにとって椿は、今も主君春正の愛妻であり、護るべき存在だ。だからこそ、彼女を以前と同様に、お沙羅の方と呼ぶ。


 しかし椿は、そう考えてはいなかった。すでに、水嶌家を出た身だ。彼らに護ってもらう権利などない。

 だから断ろうと口を開きかけて、ふと言葉を止めた。


 もしもまた、お壼の方が彼女を狙ってきたならば、周囲の者を巻き込む可能性がある。尼僧たちと共にいては、彼女たちの命まで危険に晒されてしまうだろう。

 その点、戦いに慣れた成貞たちであれば、もっと的確に対応できる。


 わずかに悩んだ椿だったが、成貞の申し出に甘えることにした。


「ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いいたします」

「迷惑だなどと、とんでもございません。お沙羅の方様をお護りするのは、春正様にお仕えする者として、当然の務めにございます」


 にこやかに応じた成貞は、話は終わったと切り上げて、食事を運ばせた。


「夕餉はまだでございましょう? どうぞ。体も暖まりましょう」

「ありがとうございます」


 茸や芋の入った温かな汁を啜ると、体の内側から優しく温まっていく。椿はほっと息を吐いた。

 気持ちが落ち着けば、別のことにも気が回ってくる。


「そういえば、なぜ春正様があの場所におられたのですか?」


 春正が椿を救ったのは、偶然と呼ぶには、あまりに間がよすぎた。

 疑問を抱いた椿に、成貞は事の次第を説明する。


「青丸様が報せてくださったのです」

「青丸が?」

「ええ。昨日のことでございますが、いつも穏やかな青丸様の機嫌が悪く。女中たちに聞けば、以前にも同じことがあったとか」


 問うように目を覗かれて、椿は頷く。

 春正が大火傷を負ったときも、青丸は夜明け前から騒ぎ、落ち着かなかったのだ。


「それを聞いた春正様が、お沙羅の方様の身に、何かあったのではないかと危惧されまして、馬を飛ばしてきたのでございます。着いてみれば、尼寺が燃えているではありませんか」


 間に合ってようございましたと微笑した成貞だが、寺が燃えているのを見た時は、生きた心地がしなかったと、眉をぎゅっと寄せた。


「心配してくれてありがとう」

「当然のことでございます。さて、これ以上長居して、御体に障ってはいけませぬ。そろそろお休みくださいませ」


 成貞は水嶌の家にいた頃と同じように、丁寧に礼をして部屋を辞する。

 その夜、椿はそのまま旅籠で一夜を過ごした。




 椿の部屋を出た成貞は、彼女の警護を他の者たちに任せて、主君である春正の下に戻る。


「殿のご容態は?」


 問われた男は、無言で首を横に振った。

 椿には、まるで大したことはないように伝えたが、実際は違う。

 春正は椿を岸まで運び、彼女を成貞たちに託してから、目を開けていない。

 事前にこうなる可能性を告げられていなければ、成貞たちも狼狽え、騒いでいただろう。


 水嶌の屋敷から尼寺に向かうまでの道中で、春正は、自身の命がもたぬかもしれぬと告げた。そして同時に、そのことをなるべく椿に覚らせぬようにと、家臣たちに厳命したのだ。


 成貞たちは、椿と春正の間に起きた、人智を超えた現象を目撃している。

 戦で大火傷を負い、死の縁にいたはずなのに、一夜にして完治した主の姿を。そして身代わりのように、変わり果てた姿に変わってしまった椿を。


 さらには椿が出家して、春正から距離を置いた途端に、彼がみるみる回復していく様子まで見ている。

 だから春正の突拍子もない命令を聞いても、疑問を持たなかった。


 とはいえ自分たちの主が命を賭すことに対しては、納得できるはずがない。それでも彼らは、異議を唱えることなく、従うことを選んだ。

 椿が水嶌家を出て行ってから、春正が心を壊していく姿も、目の当たりにしていたから。


 活発で子供っぽい所もあった心優しき主は、寡黙で冷酷な男へと変わってしまった。

 もしも愛する妻をこの世から失ってしまったら、春正はいったい、どうなってしまうのか。想像するだけで痛ましく、そして、恐ろしく思える。

 だから、春正の気持ちを、彼らは止められなかった。


「殿、お沙羅の方様も、殿のことをご案じなさっておられました。どうぞお戻りくだされ」


 沈痛な空気の中、成貞は主君に代わって、指揮を執る。

 春正が眠っている間に、椿を狐の妖ごときに奪われてなるものかと、夜も眠らず指示を飛ばした。



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