第26話 紅葉

「ありがたいことに、出家した後も慕ってくれる者たちがおってな。その内の一人が、先日訪ねて参ったのだ。還俗する気はないかと、問うてきた」


 雨洗はじっと椿の瞳を見つめ、視線を逸らさない。

 いったい何を問い質されているのかと、椿の心は狼狽えていく。


「詳しく話を聞いてみると、どうやら彼らを唆している者がいるらしい」


 心が落ち着く、優しげな雨洗の声音。それなのに、蛇に睨まれた蛙のように、椿は息苦しく感じてしまう。


「水嶌春正。知っておろう?」

「まさか」


 零れ落ちた声を拾うことも忘れて、椿は首を横に振る。


「ありえませぬ。あの方は、そのような恐ろしい考えを持つ御方ではございません。治める領地の民たちが幸せであることが一番だと、いつもそう仰っていました。権力を望む方では、まして争いを好む方ではありません」


 水嶌の家でさえ、弟に譲ってもいいと言っていたほどの春正が、主君に矛先を向けるなど、椿には到底信じられなかった。

 愕然とした椿の顔から、それが真実だと読み取ったのだろう。雨洗は困ったように眉を下げる。


「私が聞いた話とは違うな。やはり人というのは、多面的に見ねば分からぬものだ」

「いったい、どのようにお聞きになられたのですか?」


 ついつい疑問が椿の口を突く。


「武功に貪欲で、勝つためには手段を選ばぬ、血も涙もない男だそうだ」

「どなたかとお間違いでは?」

「そなたの知る水嶌春正は、そうではないのだな」

「無論でございます。小さな命にまで気を掛ける、お優しい御方です。私が怪我をした鳥の雛を見つけた時も――」


 と、椿は相手の身分も忘れ、春正がいかに優しい男であるか、語り始めた。




 椿が水嶌の家に嫁いで翌年のことだ。秋も深まる頃、春正は椿を愛馬に乗せて、領地を駆けていく。


「今日はどこへ連れて行ってくださるのですか?」

「よい所だ」


 春正は時折、椿をさらうように屋敷から連れ出し、目的地も告げずに馬を走らせることがあった。付き従う家臣たちは、またかとばかりに追いかける。


 連れて行かれたのは、山の中。周囲を覆う木々は、真っ赤に染まっていた。

 二人を乗せた青鹿毛が、ゆっくりと進む。赤く色づいた木々を眺めながら、二人は顔を綻ばせた。


「綺麗。まるで夕焼け空の中にいるかのようです」

「気に入ってくれたなら良かった。見事に色づいていたから、お前にも見せたいと思ったのだ」


 錦を背景に、うっとりと紅葉を眺める椿を、春正は目尻を下げて愛しげに見つめる。

 一際景色のよい場所に着くと、青鹿毛を止めて椿を馬上から降ろした。むしろを敷いてその上に彼女を座らせると、団子や餅を並べていく。

 事前に城下で買っていたらしい。


「椿は、かめの所の御幣餅ごへいもちが好きだったな」


 御幣餅は炊いた米を潰して木板に巻き付けたものに、潰した荏胡麻えごまなどを混ぜた味噌を塗って焼いたものだ。

 家によって味噌の味付けが変わるため、気に入りの店ができる。かめ女の店は潰した胡桃くるみを入れた、甘い味付けをしていた。


「はい。よく憶えておられましたね?」

「椿のことだからな」


 二人は肩を寄せ合って、紅葉を楽しみながら、用意していた団子や餅を食べていく。


 食事を終えて一休みも終えると、そろそろ帰ろうかと立ち上がる。その時、草むらの奥で、かさりと音が鳴った。

 春正は椿を抱き寄せつつ、目を走らせる。

 家臣たちはすぐに春正と椿を護るように位置取り、太刀に手を掛けた。


 急に変わった空気に怯えた椿は、春正の胸元にしがみ付く。すぐに彼の手が、優しく彼女の背中を撫でた。


「大丈夫だ。じっとしていなさい」


 椿にしか聞き取れないほどの小声で囁いた春正は、彼女と目が合うと、一瞬だけ強張っていた表情を緩めて、安心させるように微笑んだ。

 優しい彼の眼差しを見て、椿は体から緊張を解く。春正が大丈夫だというのなら、大丈夫なのだと。彼女は彼の言葉を信頼していたから。


 緊張は、間もなく破られた。

 ぴいっと笛に似た音と共に、下草が揺れたのだ。

 目線で頷きあった家臣たちが、草むらに飛び込んでいく。しばらくして、笑い声が上がった。


「若、鳥の雛が落ちたみたいです」


 どこかの間諜か刺客の可能性もあると緊張していた春正たちは、気を抜ききることはないものの、詰めていた息を吐く。


「鳥の雛ですか?」

「椿は鳥も好きか?」

「はい」

「では見に行こう」


 頷いた春正は椿を抱え上げて、草むらに入る。


「一人で歩けまする」

「夏山は危ないのだぞ? 蛇やひるに噛まれたらどうする?」


 過保護な春正に抱えられて、恥ずかしく思いつつも、椿はそれ以上は逆らわない。子ども扱いされるのは不服でも、春正に大切にされるのは嬉しかったから。


「足を切らないよう、ご注意くださいませ」


 山に生える草の中には、鋭い葉を持ち、柔らかな皮膚を傷付けるものも多い。春正の家臣たちは注意を促しながら、周囲に伸びていた草を、持ってきていた鎌で刈っていく。

 慣れた手つきは、事前に散々下草狩りをさせられたからだろう。椿たちが腰を下ろして紅葉を眺めた場所には、下草がなかった。

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