第25話 雨洗

 視界の端に現れた人影を捉えた春正は、思い出の海から上がり、心を凍らせる。


「どうであった?」


 問えば暗闇の中から、男が出てきた。春正直属の家臣の一人、幡部喜蔵はたべきぞうだ。

 人懐っこい性格で、すぐに人の懐に入り込んでしまう。その長所を活かすため、春正は以前より彼を、他家への使者として重用していた。

 そうして結んできた縁が、今は交渉や諜報に役立っている。


「はっ、若の御慧眼すいがん通りでございました。皆様、三の方に思う所がある模様」


 三の方は、長田澄明を指す符丁だ。彼の居城である三本松城に因む。

 喜蔵から戻って来た声に満足そうに頷くと、春正は盃に残る露を切り、新しく酒を注ぐ。


「苦労であった。飲んでいけ」

「頂戴いたします」


 差し出すと、喜蔵は恭しく受け取り一気に飲み干した。


「後は長田の長男を引きずり出すのみ、か。蒲野殿が予定通り動いてくれればいいが。あれが本当に餌になるのか」


 先程まで金切り声が聞こえていた部屋のほうをちらりと睨んでから、春正は眉をひそめる。

 蒲野安武が末姫に懸想しているのは確かだが、春正には末姫の魅力がさっぱり分からない。

 末姫を彼に差し出す代わりに、澄久との間を取り持ってほしいと頼んだのだが、中々巧く進まずにいた。

 苛立ちを飲み込み、春正は次の一手を考える。




   ◇




 秋も深まる頃、山は燃ゆるように赤く染まっていた。落ち葉を掃き集めていた椿は、湊井寺から呼び出しを受ける。

 何か呼び出されるような理由があっただろうかと、小首を傾げながら案内の僧に従い、奥へと進む。

 連れて行かれた部屋には、住職の他に、見慣れぬ隻腕の僧が待っていた。


雨洗うせん殿じゃ。そなたに聞きたいことがあるということで、訪ねて参られた」


 海がよく見えるその部屋で、勧められるままに椿は雨洗の前に座り、頭を垂れる。


「忙しい所、呼び出してすまないね」

「いいえ、大丈夫でございます」


 雨洗は穏やかな声で語り掛けてきた。


「顔を上げて、楽にしてくれ」

「見苦しい顔でございますれば」

「気にしなくてよい」


 そこまで言われては、顔を上げないわけにはいかない。椿は恐る恐る顔を上げて、姿勢を正した。

 三十半ばの整った顔立ちをした雨洗は、火傷跡が残る椿の顔を見ても、柔和な表情を崩さない。嘲りも気の毒がる気持ちも見当たらず、ただ父が子を見守るような、優しげな眼差しを向けていた。


 少し雑談を交わして空気が解れた所で、住職が部屋を出ていく。

 二人きりにされたことに対して、椿はわずかな不安を覚えた。

 部屋は海や庭方面の窓が開け放たれているので、密室というわけではない。それでも女性である彼女は、自然と緊張してしまう。

 しかしそれは、僧である雨洗に対して失礼な感情であると、椿は疑心を払拭した。 


 彼女の葛藤に気付いているのかいないのか。雨洗は窓から見える海を眺める。


「すでに出家した身だ。本来ならば、世俗のことには関わらぬべきなのだろうが、そうも言っておられなくなってね。水嶌春正殿の人となりについて、教えてもらえないだろうか?」


 思わぬことを尋ねられ、椿は雨洗の顔を、まじまじと見てしまう。すぐに自分の非礼ぶりに気付いて、慌てて頭を下げた。


「失礼いたしました」

「構わないよ。先程も言ったが、出家した以上、世俗のことは忘れるべきなのだ。過去を問うた私のほうが、礼を失している。気を悪くしないでいただけるとよいのだが」

「さようなことは、ございませぬが」


 否定しようとした椿の言葉は、途中で途切れる。

 雨洗の意図が読み取れない以上、椿は春正について語るのは気が引けた。もしも春正と敵対する勢力の関係者であれば、彼の不利益になってしまう。

 どうしようか迷っていると、雨洗のほうが動く。


「以前は長田澄久ながたすみひさと呼ばれていた」


 その名前に、椿は聞き覚えがあった。


「もしや、長田様の?」

「長田澄明は私の父だな。長男として生まれたが、この腕だ。家に残っておれば、跡目を廻ってつまらぬ争いの原因となりかねぬ。ゆえに寺に入った」


 戦で右腕を肘から失った彼は、まともに戦うことができない。

 歩兵ならば、まだ戦う術もあったかも知れぬが、城主の息子である彼は、馬上で槍や太刀を振るわねばならぬ。片手で馬を操り太刀を振るうのは、生半な業ではなかろう。

 とはいえ、雨洗の母は、京の公家から嫁いできたおきつの方だ。長男ということもあり、太刀を持って戦えずとも、跡目にという声は、今も家臣たちの間で燻っている。


「父の後は、血気盛んな弟たちが継げばよい」


 お橘の方は雨洗を生んだ後、産後の肥立ちが悪くお亡くなりになった。その後に嫁いだおこんの方は、息子と娘を二人ずつ生んでいる。


 椿は雨洗が異母妹である末姫の身を案じて、彼女の嫁ぎ先である水嶌家について知りたがっているのだと踏んだ。

 けれど、雨洗の声は途切れない。


「そう思うておった」


 その過去形の言葉を、どう受け止めればよいのか分からず、椿は彼の目を覗く。

 深い憂慮がこもる瞳はひどく切なげで、覗き込んだ椿の胸まで締め付けられるようだった。

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