第24話 夜酌

 縁側に腰掛け、手酌で酒を飲む春正の隣では、青丸が丸くなって眠る。

 椿が見つけ、二人で育てた青丸は、春正と椿を父母と思い込んでいるのか、二人によく懐いた。けれど、他の人間には懐こうとしない。

 末姫に対してなど、目に映った途端に翼を広げ、激しく威嚇する有り様だ。


 先ほどまで青丸がぐずっていたので、春正は酒を飲みながら相手をしていたのだが、どうやら落ち着いたらしい。まぶたを落とし舟をこいでいる。


「自分勝手な奴だ」


 指で青丸の耳近くを撫でてやると、眠ったままくるると嬉しそうな声を出す。

 微かに目尻を下げた春正だが、すぐに表情は沈んでいく。


「お前が飛べるのなら、様子を見に行かせたものを」


 羽毛が鱗化している青丸は、空を飛ぶことができない。

 呟きはしたものの、春正はばかばかしいと一笑した。

 青丸を飛ばせられれば、春正の望み通り、椿の様子を見てきてくれるだろう。だが青丸はしょせん鳥だ。目にした姿を、耳にした言葉を、春正に伝える術を持たぬ。


 春正は空へと顔を戻す。

 口に含んだ酒は苦く、わずかな夢さえ見せてはくれない。それどころか、耳に飛び込んできた女の金切り声で、胸やけを起こしそうな有り様だ。


「なぜじゃ? なぜ春正は妾と契らぬ!?」


 ずいぶんと品のない言葉だと、春正は怒りよりも呆れが勝ってしまう。部屋は離しているというのに、春正の臥所まで声が響いてくる。

 騒いでいるのは、長田家から嫁いできた末姫だ。




 椿が出家した翌年の正月のことだ。長田家へ挨拶に赴いた春正の前に、末姫が現れた。


「その頭巾を取ってみよ」


 居丈高に命じる彼女に、当然ながら春正は断る。


「お目汚しになりますれば、お許しを」


 けれど末姫は下がらない。


「妾が取れと言うておるのじゃ。早う取れ」


 業を煮やした末姫が手を伸ばし、頭巾をつかみ取ったことで、春正の顔は白日の下に晒された。火傷跡一つない、以前と変わらぬ顔が。

 それを見た末姫は、にんまりと嬉しそうに笑む。


「やはり失われておらなんだか」


 彼女の目は、獲物を見つけた獣のように光っていた。


「邪魔な嫁は寺に入れたと聞く。喜べ。そなたの家に嫁いでやろう」


 春正の心は、どんどん冷え切っていく。


「それがしには身に余るお言葉でございます。末姫様には、それがしよりも相応しい御方がおられましょう」

「妾が気に入ったのだ。遠慮はいらぬ」


 去っていく末姫を冷たく見送った春正だったが、そのすぐ後に、澄明から改めて末姫を嫁入りさせるとの打診を受けた。

 重ねて断ろうとした春正は、続く澄明の呟きを耳にして、凍り付く。


「湊井寺であったかのう? 尼寺には女人しか入れぬというが。さて、いつまで無事か」


 春正の背中がぞわりと粟立ち、息が詰まった。

 断れば、椿の身がどうなるか分からない。彼女の命を守るため、春正は末姫を娶らざるを得なかった。




 そうして末姫を娶ることを了承した春正だが、決して彼女に手を出そうとはしない。それどころか、顔さえ合わさずにいる。

 さらに家の者には、彼女を彼の妻としてではなく、客人として扱うように命じた。


 末姫に対して、きちんと礼儀を尽くした扱いをしている。だが誰も、彼女を春正の正室とは認めない。

 全てを思い通りにして生きてきた末姫にとって、全てが思い通りにならぬ日々。その鬱憤は蓄積され、朝から晩まで荒れていた。連れてきた乳母を相手に、毎日毎日飽きもせず、喚き散らして暮らしている。


「このような屈辱を与えるなど、春正め、妾を長田澄明の娘と分かっての所業か? 父上に申し付けてくれる」


 襖の向こうから聞こえてくる、怒り狂う末姫の声。冷たく一瞥すると、春正は酒を煽った。


「椿の命を盾に使ったのだ。殺さないでいてやるだけ、感謝してほしいほどだ」


 仄暗い目つきの春正からは、侮蔑と怒気が漂う。

 末姫が澄明の手元にいる間は、いかに苛立たしくとも、主君の姫として礼儀を尽くさねばならなかった。しかし、主君の手から離れて手元に落ちてきたのなら、やりようはいくらでもある。


 彼女が澄明へ宛てて書いた文は、全て手の者に書き替えさせた。澄明は娘が幸せにやっていると、思い込んでいる。

 外出も、護衛と称した見張りを付けて、余計な言動はさせない。


 すでに椿の下に、澄明や末姫の手が掛かった者が入り込んでいないことは、確認済みだ。

 それでも末姫を殺さずにいるのは、澄明の怒りを買わぬためと、末姫に利用価値があるからに過ぎない。


 春正は盃を置き、庭に目を向ける。

 彼が自ら手入れをしている庭では、愛しい女性と同じ名を持つ木々が、艶やかな葉に月光を受けて、輝いていた。

 見つめていれば、彼女の姿が重なってきて、尖っていた彼の心を和らげる。


「椿はもう、眠っているのだろうか」


 彼を見て嬉しそうに微笑む少女の幻影に、彼も微笑み返す。

 死が二人を別つまで、決して離れることはないと、未来など分からぬのに信じていた。

 指先にわずかに残る、愛しい妻の温もりを思い出し、春正は拳を握りしめる。


「椿」


 どれほど悔いても、過去は戻ってこない。そう分かっていても、春正は彼女を手離した悲しみを、受け入れることはできなかった。

 手酌で注いだ酒を一気に煽り、心を揺らす感情を振り払う。

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