第22話 出家
自分たちが暮らす棟に戻った椿は、手早く荷をまとめる。肌着など最低限のものだけ持って、部屋を出ようとしたところで、青丸が騒いだ。
「青丸、騒いでは駄目よ。春正様が起きてしまうわ」
じっと見つめてくるつぶらな瞳は、何かを訴えているように見える。けれど、椿に青丸の心は読めない。
「お前も元気でね」
椿がそっと背を撫でてやると、青丸はもぞもぞと翼の下を嘴で突く。
顔を上げた青丸の嘴には、黒い羽根が咥えられていた。通常の鳥の羽とは異なり、冬の池に張る氷のように、硬質で薄い。
日に透かすと濃い藍にも見える羽根は、波打つ夜の海を写し取ったかの如く、美しく輝く。
「くれるの?」
椿が問えば頷いて、青丸は羽を差し出すように首を前に突き出す。
「ありがとう。大切にするわね」
ぴいっと甲高く鳴いた青丸に別れを告げて、椿は昼が来る前に、水嶌の屋敷を発った。
◇
全身に残る火傷の跡を気の毒がられ、椿は人目に付かぬ、奥の務めを任された。
とはいえ、外に出ぬのは、外見だけが理由ではない。
彼女が尼寺に来て一ヶ月ほどが経った頃から、何度も春正が訪れて、門前から彼女の名を呼び叫んだのだ。
「椿! 頼む、話を聞いてくれ! 一目でいいのだ、椿と会わせてくれ! 椿!」
男子禁制の尼寺には、たとえ尼僧の夫であろうとも、許可なく立ち入ることはできない。
寺に入った者の中には、夫側の問題に耐えかねて逃げ込んだ者も多く、どれほど面会を求められても、本人が否といえば男は追い返される。
椿は決して春正と会おうとはしなかった。一目でも彼を見てしまえば決心が崩れ、戻りたいと思ってしまう気がしたから。
たとえ心を押し殺して尼寺に残ると伝えたとしても、春正は椿の想いに気付いてしまうだろう。
「椿! 帰って来い!」
胸の奥を抉られるような痛みに耐えながらも、椿は春正が元気になったことを喜ぶに留める。
「若! やはりこちらにおられましたか。さ、帰りますぞ?」
「離せ成貞! 椿ー!」
春正は尼僧たちから何度追い払われても粘っていたが、最後は水嶌家から追いかけてきたと思われる成貞たちによって、引き摺られるようにして帰っていく。
彼が現れた夜、椿は必ず枕を涙で濡らした。
春正と暮らした温かな生活が懐かしくて、どうしても戻りたくなってしまう。戻ればまた、彼を苦しめると分かっているのに。
しかし一年近く続いた春正の来訪は、年が変わるとぴたりと絶えた。
もしや体でも壊したのかと心配した椿だったが、春も過ぎ、夏が来た頃に、その理由を知る。
「長田様のお姫様が、お嫁ぎになられたそうよ」
「水嶌様でしたか? お姫様を迎えるには身分が低かったそうですけど、お姫様を迎えるために、たくさんの戦功をお立てになったとか」
「まあ、素敵ねえ」
寺の用事で外に出る尼僧たちの会話を、椿は掃除の途中で耳にしてしまったのだ。椿は目の前が真っ暗になった気がして、立ちすくむ。
近くにいた尼僧が、心配そうに声をかけてきた。
「どこか具合でも悪いの? 熱さにやられたのかしら?」
「いえ、大丈夫です」
出家した者は家との縁を切る。寺に入った者たちの素性は、明かされぬ。それゆえに、彼女たちは椿がその水嶌家の前妻だったことを、知らなかった。
顔色を青ざめさせた椿を心配し、休ませる彼女たちに、悪意は欠片もない。
長田の末姫との縁談は、椿が水嶌の家にいた頃から上っていた。けれど春正は頑なに断っていたはずだ。
それなのに、椿がいなくなってから一年ほどで、春正は後添えとして彼女を選び迎えた。その事実に、椿は裏切られた気がしてしまう。
春正を捨てたのは、椿のほうだというのに。あれほど望んでくれた手を振り払って、尼寺に入ったというのに。
武家の後継ぎである以上、春正が嫁を貰い子を生すのは義務だ。いつまでも椿を想い続けているわけにはいかない。
本当ならば、悲しむのではなく、喜ばねばならないのに。頭では理解していても、心は悲鳴を上げた。
その夜、中々寝付くことのできない椿は、そっと臥所を抜け出る。波の音に誘われるようにして、海が見える廊下まで行くと、岩に打ち付ける波が青白く光っていた。
空に視線を移せば、無数の星が輝く。
「この海も空も、瀬田に続いているのね」
目蓋を伏せれば、在りし日の光景が蘇ってくる。
それは、椿が十の年だった。
連日、うだるような暑さが続く夏のこと。昼の暑さは日が落ちても、いつまでも残り続ける。椿は寝苦しさを覚えて、眠れずにいた。
何やら気配を感じた椿が顔を上げると、音もなく
「椿、静かに」
案の定、囁き声と共に顔を出したのは、元服を済ませたばかりの夫、春正である。小袖姿の彼は、椿にも出かける用意をするよう促す。
すぐに小袖をまとった椿を連れて、春正は屋敷を抜けだした。
「どこへ行くのですか?」
春正に抱きかかえられるようにして、椿は青鹿毛の背に揺られる。後ろには彼の家臣たちが控えていたが、二人の会話に割り込むことはない。
「いいところだ。ずっと連れて行きたかったのだが、夜中に連れ出すのは危ないからな」
悪戯っぽく笑う春正の顔を見て、今度はどんな素敵な景色を見せてもらえるのだろうと、椿は胸を高鳴らせた。
彼がいいところと言いながら、椿を連れて行くところは、いつも素晴らしい感動を彼女に与えてくれる。
「楽しみです」
「ああ、必ずや驚くぞ」
二人は楽しげに微笑み合う。
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