第21話 選択

 全身が業火に焼かれるように痛み、叫びそうになる声を、春正は歯を食いしばり抑える。たとえここで命を落としても、悔いはなかった。

 元より失うはずだった命だ。椿を犠牲にして生きながらえたことに苦悩しつつも、彼女の傍にいたくて受け入れた。

 しかし、彼女と共に在れないのならば、彼がどちらを選択するかなど決まっている。


「春正様、お許しください! 春正様!」


 涙ながらに、椿は叫ぶ。

 愛しい声に、春正は笑む。

 彼女に名を呼ばれながら逝けるのなら、幸せだと思った。


「春正様!」


 その日一日、椿の声が臥所から響いた。

 女中を始めとした奉公人たちは、国正に知らせるべきが悩んだが、夫婦のことに口を出すことは、はばかられる。

 椿の声に、痛みは感じられぬ。それに椿が本気で嫌がっているのならば、春正が無理強いをするとは思えなかった。


 叫び疲れた椿の咽が声を枯らし、静かに夜が深まっていく。

 椿の耳元で聞こえていた春正の呼吸は、徐々に弱まっていき、彼の体からも力が抜ける。


「春正様?」


 真っ青になった椿は、慌てて春正の下から抜け出し、彼を仰向けた。

 暗がりの中で触れた春正の頬は、汗でぐっしょり濡れている。幸いにも微かな呼吸を感じて、椿は安堵した。


「春正様……」


 両手で顔を覆い、泣きむせぶ。

 椿はこんなことを望んでいたわけではない。こうならぬために、春正から離れようとしたのだ。

 嘆く椿の声を、縁側にいた青丸だけが聞いていた。



 朝が近くなったころ、椿は夢の中に迷い込む。

 海の中に迷い込んだかのように、濃淡様々な青が揺らめく空間で、椿の前には、青い着物をまとった童が立っていた。彼は今宵も泣いている。


「――次に春正が椿に触れたら、春正は死んじゃうかも」


 椿は息を飲む。


「お願いです。どうか春正様をお救いください」

「――今の僕には、これ以上、どうしようもできないよ」

「そんな……」


 顔を覆って涙する椿を、童も頬を涙で濡らしたまま、悲しそうに見つめる。




 夜が明けても、春正は目覚めなかった。椿が体を離しても、多くの痛みを身に受け過ぎた彼の体は、弱り切っていたのだろう。

 身支度をして頭巾を被り、鳥面をかけた椿は、義父国正との面会を望んだ。すぐに呼ばれた椿は、母屋に向かい国正と対面する。


 部屋の中は人払いがしてあり、国正の腹心である湯浅小兵衛しかいない。たとえ息子の嫁でも、男女二人きりになることを避けての配慮だろう。


「昨日は春正が無理をさせたそうだな?」


 誰から聞いたのか、国正は申し訳なさそうに切り出した。


「いいえ。春正様は何もいたしておりませぬ」


 国正は怪訝な面持ちで眉を上げたが、椿は真実を述べたまでだ。

 椿と春正の間に、夫婦の交わりはなかった。春正は椿の傷を己の身に戻すために、彼女を抱きしめていただけに過ぎない。


「春正様は、私が負うた傷跡を、私に触れることで己の体に戻そうとなさったのです。年が明けてからこちら、春正様のお体が思わしくなかったのは、そのためでございましょう」

「なんと!?」


 初めて聞く話に、国正と小兵衛に動揺が走る。


「そなた、知っておりながら黙っておったのか?」

「申し訳ございませぬ。私も気づいたのは、つい先日なのでございます。それ故に、春正様に離縁していただくよう、願い出たのですが」


 そこまで椿が言えば、国正と小兵衛も、昨日の出来事の理由を察した。その上で、椿の姿を改めて確かめる。


「面をかけたままということは、全ては戻っておらぬのだな?」


 椿は鳥の面を外して答えとした。

 爛れ歪んでいた顔は整っていたが、未だはっきりと残る、火傷の跡。

 国正が痛ましげに目を細めたのを見て取り、椿は再び面をかける。


「お見苦しいものをお見せいたしました」

「よい。そなたの傷は誉れだ。誇れ」

「ありがとうございます」

「して、いかがする?」


 椿を誉れと言うたのは本心でも、武家の家長である以上、国正は情だけで事を決めるわけにはいかない。

 体に傷が残り、子を生せなくなっただけならば、嫁として家に置いておくこともやぶさかではなかった。

 椿を家に残す条件として、春正に側室を娶らせようと、国正は考えていたのだ。そうでもせねば、春正は子を残さない危険があったから。


 しかし彼女に触れることで春正の体に不調が現れる。それどころか、もしかすると春正が負うはずだった傷が全て戻り、命を失うかもしれないとなれば、話は別だ。

 だから、国正は椿に決断を迫った。

 椿も承知している。震えそうになる声を律して、言葉を紡ぐ。


「春正様が眠っておられる間に、寺に移ろうと思います」

「それしかあるまいのう」


 春正が起きれば、なんとしても止めようとするだろう。その前に、ことを済ませる必要があった。尼寺に入ってしまえば、追いかけたところで門前払いを喰らうだけだ。


「一つ、お願いがございます」

「何でも言うてみよ。私にできることならば、尽力しよう」


 頷いた椿は、願いを口にした。


「どうか春正様が目覚めましたなら、椿の肌は以前のように戻っていたとお伝えください」


 国正は目を窄めて椿を見つめる。

 言われなくとも、そう偽るつもりであった。そうでもせねば、春正は何をしでかすか、実の親である国正にも予測が付かない。


「あい承知した。必ず叶えよう」

「ありがとうございます」


 顎髭を扱いた国正は、小兵衛に視線で支度を促す。それから姿勢を正して椿に向き合う。


「今まで我が息子の妻を、よう務めてくれた」

「もったいないお言葉にございます。今までお世話になりまして、ありがとうございました。どうぞ、皆様にも良しなにお伝えください」

「うむ。達者でな」

「御父上様も、どうぞご健勝であられますよう、お祈り申し上げます」


 国正の目尻には、光るものがあった。幼い頃に引き取り、娘同然に育ててきたのだ。親としての情が芽生えてしまっている。

 それでも彼は、多くの家臣や領民を預かる身。私情で判断を誤るわけにはいかない。

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