第20話 崩壊

 夜が明けて、朝餉を終えた後、椿は春正の正面に座る。いつもと違い、真剣な顔で真っ直ぐに彼を見つめた。


「どうした? そのように改まって」


 軽い調子で問うたものの、春正はひどく胸騒ぎを覚える。

 椿がこのような態度に出たことは、過去にあまりない。何か大きな決断をしたのだと察した彼には、その決断が良いものだとは思えなかった。

 強い眼差しで春正を見つめていた椿は、床に指を突き、頭を垂れる。


「どうぞ、ご離縁くださいませ」


 椿の口から発せられた言葉を聞いたとたん、春正の顔から表情が抜け落ちた。


「断る」


 考えるより先に、口から滑り落ちる。

 椿の願いなら、どのようなことでも叶えたいと思う春正でも、受け入れられぬ申し出だ。


「そなたは私の妻だ。私はそなたを手放す気はない」


 どのような理由があろうとも、春正は椿を失うことだけは、耐えられなかった。にじり寄り、彼女の手を取る。しかし握ったはずの手は、掌から零れ落ちてしまった。

 春正の緩みかけていた表情が強張る。妻として迎え入れてから、彼女に拒絶されるのは、初めてのことだ。


「理由を教えてくれ、椿。誰かに何か言われたのか? 気にすることはない。誰が何と言おうと、私の妻はそなた一人だ。そのような迷いごと、二度と言わぬと約束してくれ」


 内から込み上げてくる不安に耐えきれず、春正は椿を抱き寄せ懇願する。


「いいえ。違いまする」

「ではなぜだ!?」


 悲痛な声が春正の咽を震わせた。

 体を離し、椿の頬を両手で包み込んで、彼女の瞳を覗き込む。わずかな揺れも逃さず、彼女の感情を読み違えぬように、春正は全ての意識を集中した。


「辛いのでございます」

「その姿か? ならば安心せよ。必ず私が元に戻してやるから」

「違いまする。春正様の、お傍にいることがでございます」


 春正の瞳から、光が消える。

 椿の言葉に嘘はない。彼女の瞳を見つめていた春正は、それが理解できてしまった。

 椿の言葉に偽りはない。自分が近くにいれば、春正を苦しめると知った彼女は、彼の傍にいることが、辛かったから。

 彼女の頬から、春正の手が力なく滑り落ちていく。

 目蓋に浮き出そうな涙を必死に呑み込み、椿は続ける。


「どうか、ご離縁くださいませ。御仏にお仕えすることを、お許しくださいませ」


 頬を拘束する手が外れた隙に、椿は深く頭を下げた。顔を見せぬよう、真意に気付かれぬように。

 それ以上、椿は何も言えなかった。口を開けば、涙が零れ落ちそうだったから。


 春正は呆然と椿を見つめたまま、口を開くことができない。何を言えばいいのか、分からなかったから。

 しばらくの間、夫婦の間には静かな時が流れる。


「何か気に障ることをしたか? ならば申してくれ。二度とせぬと誓おう」


 思考を取り戻した春正は問うた。椿の考えが、どうしても分からなかったから。

 幼子のように顔を歪めて、椿に縋りつく。


「そうではございませぬ」

「ではなんだ? 何が気に入らぬ? 教えてくれ、椿」

「春正様のせいではございませぬ。私の心の問題なのです」


 椿の声が震えていく。唇を噛んで耐えようとしても、涙が床を濡らす。


「私は、椿にとっていらぬのか? 私はそなたと共にありたい。そう願うのは、私だけなのか? なあ、椿? 私はいらぬのか?」

「申し訳ございませぬ」


 刹那、迷子の子供のように泣きそうな顔をしていた春正の顔から、感情が消えた。


「そうか。ならばもうよい」


 冬の海を思わせる、冷たく凪いだ声に、椿は息を飲んだ。そんな彼の声を、彼女は今まで一度も耳にしたことがない。

 本気で怒らせてしまったのだと知り、もう戻れないのだと、自分が望んだことであるにも関わらず、椿は胸がずきりと痛むのを感じる。

 けれど、突き放されたはずの椿は、気付けば春正の腕の中にいた。


「春正様? 何をなさいます!?」


 体を離そうともがいても、鍛え抜かれた春正に、椿が敵うはずなどない。


「お沙羅の方様? いかがなされましたか?」


 椿の叫び声を聞いたお鯨が、襖の向こうから様子をうかがう声を投げてきた。

 助けを求めようと口を開いた椿の声を、春正の声が覆い隠す。


「下がれ! 呼ぶまで誰も近づけるな!」


 嫁である椿よりも、世継ぎである春正の命令のほうが優先される。それに二人は夫婦だ。

 使用人であるお鯨に、止められるはずなどない。


 椿の耳元では、春正の荒い息遣いが聞こえる。

 春正の温もり感じながら、椿は恐怖に震えた。彼の呼吸の乱れが、欲情からくるものではないと知っていたから。

 眠っていた春正は、椿が手を触れただけで、苦悶の表情を浮かべ呻いたのだ。こんなに密着してしまっては、どれほどの苦しみを味わっているのであろうか。

 それを想像すると、辛くて、恐ろしくて。椿は涙が止まらなかった。


 春正は椿を抱きしめ続けた。少しでも多く触れるよう、ぴたりと肌を触れ合わせる。

 彼女にとって自分が必要ないというのなら、わずかでも彼女が背負ってくれた傷を、自分の体に戻すために。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る