第18話 春正

 水嶌春正は、美しい少年だった。

 張りのある輝く肌。形のよい眉。愁いを帯びた目。筋の通った鼻に、優しげな唇。それらが絶妙の配置で並ぶ。

 一目見れば、男女問わず感嘆の息を吐いてしまう彼はしかし、その容姿を不満に思っていた。


 あまりに整いすぎた容貌は、彼を目にした者に、勝手な印象を抱かせてしまうのだろう。無意識に相応しい振る舞いを期待される。

 武家の嫡男に生まれたことも、人々の期待を増長させた。


 彼が口を開き、表情を動かせば、相手はまるで裏切られたとでも言いたげに、笑みを崩して顔を歪める。

 物心ついた頃にはすでに、それが彼の日常となっていた。

 だから春正は、彼らの期待に応える振る舞いを、自然と身に着けていく。自覚なく溜まっていく鬱屈うっくつは、彼の眼差しや声を、徐々に冷たく変えていった。


 そんな彼に縁談の話が来たのは、十一になった年のこと。

 水嶌家と同じく、長田家に仕える境谷さかや家との縁を深めるため、境谷家の娘が嫁いでくることが決まったのだ。


 嫁いでくると書きはしたが、将軍家の権威が弱まり、各地で戦火が絶えないこの時代にあっては、人質と変わらない。

 相手の少女はまだ七つだという。可哀そうだと思いはした春正だが、それ以上、慮る気持ちは抱かなかった。


 彼が今まで出会った娘の中には、しつこく付きまとってくる娘や、よく分からぬ理想を押し付けてくる娘も多い。

 全ての娘がそういう態度ではないのだが、どうしても印象が強く、春正は女を警戒してしまう。だから、取りやめにならないだろうかと願っていた。

 けれど彼の願いもむなしく、祝言の日は訪れる。


 初めて見た幼い妻は、白い衣に包まれて、顔さえ見えない。微かに見える小さな口を大きく開けて、あくびをしていた。

 夜も遅いので、眠たかったのだろうとは理解できても、夫となる自分と初めて顔を合わせたのだ。普通はもっと緊張しているものではなかろうかと、春正は、妻となる少女の呑気さに呆れてしまう。


 その後、椿は用意された雑煮を、美味そうに頬張った。春正の中で、椿は女性ではなく、子供という認識に当てはめられていく。

 しかし臥所しんしつに行き、被いていた小袖を外した椿を見ると、予想に反して可愛らしい少女だった。

 それでも春正から見て、幼いことに変わりはなく、彼が彼女を意識することはない。隣り合って眠り、何事もなく朝を迎える。


 先に目覚めた春正は、椿を起こさぬよう、音を消して部屋の隅に移った。外から差し込んでくる朝日を頼りに、隠し持ってきていた本を開く。

 彼が目覚めてからしばらく経ってから、椿も遅れて目覚めた。


「よく眠っていたな」

「おはようございます。寝坊して申し訳ありません」

「構わぬ。どうせ今日は、この部屋から出てはいけないのだから」


 春正は眉を寄せて、睨むように部屋を見回し、肩を竦める。さらに庭のほうを見て、溜め息を落としてしまう。


「鍛練は一日休むと、遅れを取り戻すのに、三日は掛かると言われているのに」


 連日励んでいた太刀や槍の稽古さえ、今日明日は禁じられていた。

 同じ年頃の家臣たちは、今日も鍛錬に励んでいることだろう。こうしている間にも、彼らとの差が付いてしまうのではないかと、春正は気が気ではなかった。


 ふと視線を椿に戻した春正は、己の失言に気付く。椿が眉を下げて、泣き出しそうな顔をしていた。


「そなたを責めているわけではない」


 慌てて言い繕うと、椿はこくりと頷く。それから、春正が手にしていた本に興味を示した。


「何を読んでいるのですか?」


 泣かせずに済んだとほっと胸を撫で下ろした春正は、彼女の意識を逸らすため、本を見せてやる。


「兵法の本だな。こっそり懐に隠しておいたのだ。内緒だぞ?」

「はい、内緒ですね?」


 唇に、立てた人差し指を当てて見せると、真似をして、椿も人差し指を唇に当てる。

 ぎゅっと眉を寄せた彼女の真剣な表情がおかしくて、春正は笑ってしまった。釣られるように笑う椿の顔は無邪気で、彼が苦手とする娘たちとは、違うように見えた。


「外に出られるようになったら、領地を案内してやろう。三谷に海はないのだろう?」


 そんな話を振れば、彼女は目をきらきらと輝かせて、身を乗り出してくる。


「瀬田には海があるのですか? とても広い池だと聞きました。見てみたいです」

「池ではない。落ち着いたら連れて行ってやろう。獲れたての魚は美味いぞ」


 海に連れていくと約束しながら、春正の中に、ふと疑問が浮かぶ。

 この幼い妻は、春正に何を望んでいるのだろうか。何をしたら、この輝いだ瞳が翳るのか。

 一度抱いた歪んだ感情は、じわじわと彼の内側を侵食していく。


たこは知っておるか? こんな顔をしていてな、腕が八本もあるのだ」


 そう言って口を尖らせ、手を揺らし、蛸の真似をしてみた。

 美しいかんばせの彼がこんなことをすれば、老若問わず、女は嫌がるものだ。同じ年頃の少年である、彼の家臣たちは許されるのに――。

 しかし椿は違った。


「まあ、腕が八本も? どの腕を動かしているか、分からなくなりそうです」

「だが使いこなせれば、便利だと思わぬか? 槍と太刀、それに弓も、同時に使える」

「とっても強そうです」


 下らぬ話にも、驚きや尊敬の眼差しを向ける。

 春正が動揺していたことを、椿は知らないだろう。

 それから色々な話をした。女たちや大人たちが嫌がる仕草を交えてみても、彼女は目をきらきらと輝かせて、もっと聞きたいと全身で求めてくる。


 春正は嬉しくて、泣きそうだった。

 ありのままの自分を、この幼い妻は、受け入れてくれるのだ。彼女の前では、無理に背伸びをしたり、偽ったりする必要はないのだと、理解した。

 幼いゆえの応用力だと言う者も、いるかもしれない。けれど、春正は知っている。

 嫁いできた椿よりも幼い娘でさえ、春正に理想を押し付けてくることがあると。



「――椿、どこにも行かないでくれ。そなたを失ったら、私は息ができぬ。頼むから、私を見捨てないでくれ」


 幼いころの夢を見て目が覚めた春正は、部屋に注ぎ込んでくる月明かりの下で、隣で眠る椿の頬を撫でる。

 出会った日から、春正の中で、椿の存在は大きくなるばかりだ。


 初めは恋ではなかった。異性として愛するには、彼女は幼すぎたから。

 だが共に暮らしている内に、成長していく内に、宝物のように思っていた少女は、愛しい女性へと変わっていった。

 もうこれ以上は愛せないと思っても、気付けばさらに恋焦がれている。

 たとえ全身を業火に焼かれようとも、椿から離れるという選択肢など、春正の中には存在しない。


「この身をどれほど焼いてくれても構わぬ。だからどうか、私から椿を奪わないでくれ」


 どこにいるのかも分からぬ、夢で見た童に向けて、春正は祈る。

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