第11話 火焔
「気付いたか。しかし、そこからどうする?」
知朱は閉じた扇の先で顎を叩きながら、興味深そうに春正を窺う。
そうしている間にも、廊下から足音が聞こえ、槍を構えた兵が部屋の中に突入してくる。
「お
「ならぬ!」
春正の叫びは遅かった。部屋に入って来た兵は、春正よりも
「おお、おお、威勢の良い猪じゃ。止まりもせなんだ」
知朱は呆れた様子で、今しがた散った兵を見下ろす。
そんな知朱の声には耳を貸さず、春正は左手に持っていた鞘から小塚を引き抜き、入り口近くの天井に向かって投げ付けた。
耳障りな悲鳴が上がり、赤い塊がぼとりと落ちる。
蜘蛛に似た姿を持つ妖、
胴だけでも
それと同時に、知朱から表情が抜け落ちる。
「よくも儂の可愛い
ぞっとするほどの冷え切った目で、憎々しげに春正を睨んだ知朱が、傍らの燭台をつかむと横に薙いだ。
嫌な予感がして春正は踵を返し逃げようとしたが、前に出した足に痛みを感じ、すぐに動きを止めた。
裂蜘蛛の糸は、いつの間にか春正の背後にも張られていたのだ。
燭台から裂蜘蛛の糸に移った火は、瞬く間に部屋中に張り巡らされた糸を辿り、春正を呑み込んでいく。
「知っておるか? 裂蜘蛛は、ただ強靭で切れ味のよい糸を出すだけではない」
春正は知朱を警戒しつつも、逃げ道を探して目を忙しなく動かす。
裂蜘蛛の糸が燃えているお蔭で、糸がどこに張られているのか、視認できるようになっていた。知朱の首はさっさと諦めて、春正は燃える糸の隙間を潜り、部屋からの脱出を目指す。
そんな彼の背中を、知朱が冷たく見つめる。
「共にあの世に参ろうぞ」
知朱の声を合図にしたかのように、耳をつんざく轟音と震動が、裂蜘蛛の体を起点にして城を襲った。
いったいなにが起きたのかと考える暇もなく、熱風が春正の全身を殴り、部屋の奥へと吹き飛ばす。
燃えていたからか、それとも爆風には耐えられなかったのか、裂蜘蛛の糸も千切れて飛んだ。お蔭で春正の体は切り刻まれることを免れたが、体は火に包まれていた。
「裂蜘蛛の名は、糸で獣を裂くから付けられたのではない。火を射かけると、周囲を巻き込んで破裂するからよ」
そう言った知朱は、ぐらりと傾き床几から落ちる。部屋に転がっていた槍の穂先が爆風で飛び、彼の胸を貫いていた。
知朱の死を視界の隅で確かめた春正は、出口に向かって這い進む。
指を動かすだけで、熱や痛みが全身を襲い、動きを止めたくなる。それでも彼は歯を食いしばり、外を目指す。
「椿」
赤く揺れる視界に浮かぶのは、気高く咲き誇る一輪の花。穢れを知らぬ、白つばき。
「椿」
必ず戻るのだと、春正は前に進むのをやめない。
もしも彼が帰らなければ、椿は泣いてしまうだろう。彼女の泣き顔など、想像するだけで胸を掻き毟られる。
「つば、き」
爪を床に食い込むようにして、春正は廊下へと出た。
目は見えず、音も聞こえない。記憶だけを頼りに、血と、焦げた跡を残しながら、廊下を進んでいく。
必ず帰るのだと。愛しい妻の下へ戻り、安心させてやるのだと。その一心で、彼は腕を動かす。
「若!? 春正様が居られたぞ! こっちだ!」
春正直属の家臣の一人、
体を燃やす火を消し、城から運び出された春正は、すぐに
全身が焼け
「つば、き」
意識のない彼の口から零れ落ちるのは、春正が愛する妻の名前ばかり。
「殿、お願いがございます」
春正の命は、燃え尽きようとしている。
だから堀井成貞を始めとした春正の家臣たちは、国正に申し出た。
「どうか若を、一足先にお屋敷へ連れ帰ることを、お許しください。最後に一目だけでも、お沙羅の方様に会わせて差し上げとうございまする」
敵城は燃え、すでに戦の勝敗は決まっている。負傷した春正と一部の兵が先に切り上げたとて、水嶌の当主である国正と大多数の兵が残っていれば、澄明からのお叱りは免れるだろう。
「許す。春正を頼む」
「はっ。必ずや、お沙羅の方様の下へお届けいたします」
こうして春正は、戦場を離れた。
戦場から水嶌の屋敷に駆けてきた使者が、春正の負傷を伝えたのは、青丸がぐずった翌日のことだ。
「若様が、敵城を攻めた際に火傷を追われましたこと、急ぎお知らせに参りました」
椿は聞いたとたんに眩暈を覚え、よろめいてしまう。女中たちに支えられながら部屋に戻ったが、横になることなく、仏間へ向かった。
「どうか春正様をお返しください。どうか春正様をお救いください」
椿は夜を徹して、一心不乱に祈り続ける。
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