第12話 帰還
朝になり、昼になっても、春正の負傷について、詳細を伝える使者は来ない。
「きっと、大した怪我ではないのでしょう」
不安で落ち着かない椿に、女中たちはそう言って彼女を慰めた。
武家の嫁といえども、椿はまだ十五の少女だ。気丈に振る舞おうとしてみても、恐怖は抜けきらない。
そして夜も更けた遅い時間のこと。屋敷の門前が騒がしくなった。
起きていた椿は胸騒ぎを覚えながら立ち上がり、急ぎ門前に走る。
ちょうど敷地に入ってきたのは、具足を着けたままの男たち。椿はどの顔にも見覚えがあった。春正に幼いころから仕える家臣たちだ。
彼らの顔から視線を下ろせば、板に乗せられた春正が運ばれているのが見える。
とはいえ、春正は全身に布が巻かれていて、誰だが判別できない状態だった。それでも椿には、すぐに彼だと分かったのだろう。
「春正様!」
駆け寄るなり、彼の手を取り声を掛ける。
ぐったりと横たわる春正は、動かない。椿は恐怖に震えつつ、彼の耳元に口を近づけて、もう一度呼んだ。
「春正様、椿です。分かりますか?」
「つば、き?」
力なく動いた唇から、椿の名を呼ぶ声が漏れ聞こえた。声は枯れていて、彼女の知る春正の声ではない。それでも、春正の声だ。
生きているのだと、椿は安堵の息を漏らす。
目元には涙が浮かぶが、家臣たちの前で不甲斐ない姿を見せるわけにはいかないと、歯を食いしばって零さぬよう耐える。
それでも足が震えて膝に力の入らぬ椿は、動くことができない。お鯨が支えてくれて、ようやく歩き出した。
「奥へお連れして」
「はっ」
椿は
燭台に灯りが点されると、春正の姿が明らかになった。
灰色に染まった布が全身に巻かれ、顔さえ見ることができない。肌が見えるのは、呼吸をするために残された、口と鼻だけだ。
鼻は爛れ、口は火ぶくれて腫れあがっていて、どちらにも春正の面影は見当たらなかった。
医師を呼ぶように指示を出した椿を、春正に付き添ってきた成貞が止める。
「お沙羅の方様、無駄にございます。
「そんな……」
血を吐くようにして告げた成貞の言葉を聞いて、椿は息を飲んだ。
春正は静かに眠っている。すでに呻く力も残っていないのだろう。明日の朝まで持つかどうかさえ怪しい状態だ。
呆然とする椿を残し、成貞たちは部屋を去る。最期は夫婦水入らずにしてやりたいとの心遣いだった。
残された椿は、春正の頬に触れる。
「春正様、どうか椿を置いていかないでください」
その声が届いたのか、春正の腫れた唇が動く。
「つば、き?」
「春正様!」
微かに彼の指も動いた気がして、椿はその手の下に、己の手を滑り込ませた。傷を刺激せぬよう、優しく握る。
「春正様、お目覚めになられたのですね?」
「椿、どこにいる? 椿」
布で覆われている彼の目に、椿の姿は映らない。だから彼女を探し、顔が
歯を食いしばり、腕を上げようとする春正の動きを見て、椿は彼の手を持ち上げ、自分の頬まで導いた。
腕を動かした瞬間、呻く声が彼の口から漏れ聞こえたが、椿の頬に手が触れたとたん、春正の口元がほんのり緩む。
椿は流れる涙を堪えられない。咽の奥から飛び出て来そうになる
「ただいま帰った、椿」
「お帰りなさいませ、春正様」
春正の耳元に口を寄せ、彼に届けと祈りながら、言葉を紡いだ。彼の目には映らないと分かっていても、顔に笑みを貼り付けて。
「すまない、椿。こんな姿になってしまった」
「いいえ。いいえ、よいのです。生きていてさえくだされば、それだけで、椿は嬉しゅうございます」
彼が生きて、声を聞かせてくれるだけで、椿は充分に幸せなのだから。
春正は何か言いたげに唇を震わせたが、結局何も言葉にせず閉じる。それから、再び唇を動かした。
「留守中、大事なかったか?」
死を前にしているとは思えぬ、穏やかな声。
「何事もなく、平穏でございました」
「そうか」
暗闇の中で、声だけ聞いていれば、春正は戦に赴く前と変わらないように思える。椿を気遣う、優しい彼の声だ。
怪我など悪い夢だと、椿はそんな風に錯覚しそうになった。そう、思い込みたかったのかもしれない。
「ですが、お会いできなくて、寂しゅうございました」
「私もだ。椿が傍におらぬと、落ち付かぬな」
どちらからともなく、くすくすと笑いだす。
けれど、痛むのだろう。春正の口が、
苦痛と戦う彼の姿に、椿は零れ落ちそうになる泣き声を、下唇を噛んで押し留めた。
「何か欲しいものはございませぬか?」
「そうだな。水を少しもらえるか?」
「はい」
椿は用意させておいた吸い口に水を注ぐと、春正の口元に宛がう。ほんの少しだけ水を含んだ春正は、激痛を呑み込むように呻く。
そんな姿が、椿の胸を深くえぐる。
声を上げて、彼の名を呼び、大丈夫かと問いたい。けれど、そんなことをすれば、なおさら春正に、無理を強いる結果に繋がるだろう。
椿を心配させぬため、春正は命を燃やして平然を装うのだ。
「椿」
深く息を吐いた春正が、愛しい妻の名を呼ぶ。
「はい。なんでございましょう?」
椿が声を返したが、春正は何も言わずに、静かに呼吸を繰り返す。微かに唇が震えたが、言葉を生み出すことはなかった。
「いや、呼んでみただけだ」
「はい」
そうではないのだろうと、椿は思う。何か伝えたいことがあったのだと気付かないほど、彼女が春正を見つめ続けてきた歳月は、短くない。
しかし春正が言わぬと判断した言葉を、彼女は無理に聞き出そうとは思わなかった。
「椿」
「はい」
「少し休む」
「はい」
動かなくなった春正を見守る椿の瞳から、溜めていた涙が溢れだす。彼に気付かれてはいけないと、声を押し殺し、椿は静かに泣いた。
なぜ、春正がこんな目に遭わなければならないのか。なぜ、戦など起きるのか――。
涙と共に、疑問が湧き出てくる。
椿は春正の手を握ったまま、彼の傍に居続けた。
脈が一つ振れる時間さえ惜しいと、夜を徹して彼を見つめる。
「どうか、春正様をお救いください。春正様が助かるのであれば、私は何でもいたしますから」
無意識に零れ落ちる言葉。
明け方近く、椿はわずかな眠りに就いた。
抗ったものの、昨夜も春正の無事を祈って眠っていなかったため、睡魔に勝てなかったのだろう。
座ったまま目蓋を落とした椿は、海の底を思わせる、青く揺れる世界に迷い込んだ。
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