第9話 出陣
季節は巡る。長雨も収まり、蝉の声が聞こえてくる頃、水嶌の屋敷は緊張と熱気であふれていた。
椿も春正が具足をまとうのを、不安をひた隠して手伝う。
「そのように心配するな」
「心配などしておりませぬ。春正様は
春正の言葉を、椿は即座に否定した。
本心では、春正の身を案じている。彼はこれから、戦に出向くのだ。何度経験しても、慣れることなどなかった。
無事に帰ってきてほしい。怪我もしないでほしい。いっそ、戦など立ち消えてしまえばいいのにと、男たちが耳にすれば怒り狂うであろう言葉が、椿の頭の中をぐるぐると行き交う。
だから椿は感情を隠し、余裕の表情を浮かべる。
私は大丈夫だと、春正は何事もなく帰って来ると、自分自身と彼を安心させるために。
ふっと目元を緩めた春正の手が、椿の頭を優しく二度叩いた。
そのせいで緊張が緩み、寂しさが胸の内で膨らんでしまった椿は、泣きそうになるのを誤魔化すため、春正を睨む。
「もう子供ではありませぬ」
「そうか」
「もうっ」
悪戯っぽく口の端を上げた春正の胸を、椿は小突くが、逞しく鍛え上げられた彼が、動じることはない。楽しげに笑い出した彼を見て、椿も自然と笑みをこぼした。
最後に兜の緒を締めると、互いの表情も引き締める。
「家のことは頼む」
「お任せくださいませ」
春正は椿の背に手を回し、彼女を強く抱きしめた。
部屋を出れば人目がある。二人の触れ合いは、これで戦が終わるまでお預けだ。温もりを忘れぬよう、成貞が呼びに来るまで、ひたと体をくっつけて離れない。
「若、ご支度ができましたなら、どうぞおいでください」
「うむ。すぐに行く」
椿が春正の胸から顔を上げた時には、彼はすでに彼女の夫ではなく、
火打石を打ち鳴らして厄を取り除き、部屋から春正を送り出す。
春正の後に付いて外に出た椿の目に、戦支度を終えた男たちの姿が飛び込んできた。誰もが緊張と闘志をみなぎらせ、幾ばくかの不安を覆い隠している。
「皆、支度はできておるな?」
最後に出て来た国正が家臣たちの顔を見回すと、全員が威勢のよい声を上げて応えた。うむと頷いた国正が、愛馬の上にひらりと跨り、出陣の命令を出す。そして、馬の横腹を蹴った。
間を置くことなく、一団は一斉に動き出す。
馬上の人となって遠ざかっていく春正の背中を、椿はじっと見つめた。
一瞬だけ振り返った春正と、椿の目が合う。彼は厳しい表情のままわずかに頷くと、何も言わずに背を向けて遠ざかっていく。
「どうぞご無事で」
椿は手を合わせ、春正と皆が無事に帰還することを祈った。
じりじりと暑さが増し、蝉たちが賑々しく鳴き交わす日々を、椿は水嶌の屋敷で忙しく過ごす。
戦によって異なるが、長丁場となる城攻めなどでは、戦場に届ける物資の調達や送る手配、近隣の領地との連絡など、女たちにも多くの仕事があった。
椿も春正の妻として、帳面や届いた書状と睨み合い、資金と相談しながら、必要な物資を戦場へ送る算段を付けていく。
「まだお若いのに、お
手が空いたところへ新たな書状を運んできたお
水嶌家で働く者たちにとって、幼くして嫁いできた椿は、他家から嫁いできた余所者という感覚が薄い。だから接し方も、主従の線は引きながらも気安いところがあった。
「まだまだよ。お義母上様のように、もっと堂々としなければと思っているのだけれども、なかなか難しくて」
「私どもから見れば、お沙羅の方様も充分に堂々と働いておられますよ」
「そう言ってもらえると安心するわ。ありがとう」
長田の末姫を迎えるかもしれないという話が出ているだけに、椿は妻としての仕事がきちんとできているか、以前にも増して気にしていた。
そのことを女中たちも察していたのだろう。さり気なく声を掛けては、椿を励ます。
椿が再び帳面へと視線を落としたとき、けたたましい鳴き声が響いた。春正と椿が飼っている、
四年ほど前に巣から落ちていた鳥の雛を見つけ、鷹狩り用の鷹を求めていた春正が飼おうと言い出し、連れ帰った。
けれど育ってみれば、どうやら鷹ではないと分かる。
遠目からだと鴉に間違われるほど全身が黒い。目も羽同様に黒く、愛らしいつぶらな瞳をしている。
猛禽類らしい力強く鋭い爪と嘴を持つのだが、鳥に詳しい家臣に見せても、ノスリに似ているが、見たことのない鳥だと首を傾げられてしまった。
しかも病に侵されているのか、羽毛が鱗のように硬くなっているため、空を飛ぶことさえできない有り様だ。
当初の目論見であった鷹狩りには使えない青丸だが、今も椿と春正の二人で世話をしていた。
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