第8話 花冷

 ぽつり、ぽつりと落ちていた雨は、あっという間にどしゃ降りになり、椿と春正を容赦なく濡らす。


「椿、寒くはないか?」

「大丈夫でございます」


 強がったものの、椿の指先はかじかんでいて、唇も青くなっていた。

 椿は春正の背中から伝わってくる温もりがもっと欲しくて、ぎゅっとしがみ付く。

 驚いた顔をした春正が振り返ると、椿は慌てて身を起こした。


「よい。もっとくっ付いておれ。そのほうが温かいし、落とさずに済む。……落とすつもりはないがな」


 春正が椿にだけ聞こえる小声で促す。その柔らかな声に甘えるように、椿は離した体を再び春正の背中にくっ付けた。

 地面は水を含んで滑りやすくなっていたが、春正と家臣たちはぬかるみに足を取られることもなく、山を下りていく。


「若、あちらに小屋があります。そこで休みましょう」

「うむ」


 一同は、麓近くにあった小屋に身を寄せる。


 小屋には囲炉裏があり、部屋の隅には薪が残っていた。

 男たちは小屋に入る前に着物を脱ぐと、絞って水気を切る。肌着も脱ごうとした彼らだったが、春正に睨まれて手を止めた。

 まだ少女とはいえ、女の椿がいるのだ。彼女の前で裸を晒すことを、春正は良しとしなかった。


 男たちの前で脱ぐわけにはいかない椿は、濡れそぼった体を震わせながら、春正にいざなわれて小屋に入る。寒さに堪えきれず、抱きしめた自分の腕を擦っていた。


「椿、可哀そうに。すぐに温かくなるからな。もう少しだけ我慢しろ」


 春正は冷たくなっていた椿の手を取り、指先に息を吹きかけてやる。

 そうしているうちに、成貞たちが囲炉裏に薪をくべて火を熾す。

 小屋の中が徐々に暖かくなると、椿の震えも少しずつ収まっていく。


「お前たち、しばし外へ出ていろ」

「はっ」


 鋭く発せられた春正の命令に従って、ようやく暖にありつけたはずの男たちは、慌てて外へ出ていった。

 軒で雨を凌げるとはいえ、外は寒いだろう。なぜそんな命令を下すのかと、椿が訝しげに春正を見ると、彼が着ていたはずの小袖が、椿に向かって差し出されていた。

 顔を上げると、春正が耳を赤く染めて、あらぬ方向を見ている。


「その格好では寒かろう。まだ乾いていないが、その着物よりはましなはずだ。着替えるといい」


 家臣たちを外に出したのは、椿が着替える姿を見せぬための気遣いだったのだ。

 椿は頬を赤く染めながら、おずおずと春正の小袖を受け取った。


「ありがとうございます」

「うむ。私も外にいる。着替えが終わったら声を掛けてくれ」

「あの」

「なんだ?」


 言葉通り小屋から出て行こうと歩き出した春正を、椿は呼び止める。 


「外は寒うございます。私は平気ですから。その、夫婦ですし」


 自分で言っていて恥ずかしくなってしまい、椿の声は尻すぼみに消えていく。

 彼女が頬を赤くしてうつむくと、春正も彼女が言わんとしていることを察したのだろう。目を泳がせながら頬を掻いた。


「案ずるな。男は丈夫にできている。この程度、寒くはない」

「あっ」


 椿が止める間もなく、春正は小屋から飛び出していく。

 板戸が締まる直前に、成貞たちのからかうような明るい声が入って来た。主従の関係とはいえ、幼いころから共に過ごしてきた彼らは仲がいい。

 椿は皆を待たせぬよう、急いで小袖を脱ぎ、春正が貸し与えてくれた彼の小袖に袖を通す。


 裄も丈も長くて、椿は春正の大きさを改めて感じた。なんだか恥ずかしくて、けれど嬉しくて、抑えようと力を込めても、頬が緩んでしまう。

 春正の小袖に包まれた椿は、とても温かくて幸せな気持ちだった。

 とはいえ、いつまでも一人だけ暖かな小屋の中にいるわけにはいかない。裾を引きずらぬよう腰紐で端折り、襟元を整えると、戸を開けて外に顔を覗かせる。


「春正様、もうよろしいですよ?」

「そうか」


 小屋の外に椿が顔を見せたとき、なにやら皆の雰囲気が尖っていた。

 けれど振り返った春正は白い歯を見せて笑っているし、もう一度椿が男たちを見回してみれば、彼らも笑っている。

 だから椿は、見間違いだったのだろうかと不思議に思いながら、小屋の中に戻ったのだった。




 並んで寝転がり、桜を見上げていた椿は、くすくすと笑う。


「私は、春正様に嫁げて幸せです」

「私のほうこそ、椿が来てくれて幸せだ」


 風に踊る桜の花弁が、椿の前髪に舞い降りた。身を起こして手を伸ばした春正は、花弁を取り除いたついでとばかりに、椿の頬を撫でる。

 くすぐったそうに頬を赤らめ、目を潤ませる彼女の顔が視界に映り、春正は息を飲んだ。

 幼かった少女は娘へと育ち、さらに女へと羽化しつつある。


「早く来年にならぬだろうか」


 思わず呻いた春正は、椿に抱きついてしまう。

 来年になれば、椿は十六になる。真の夫婦となることが許される年齢だ。


「春正様、外です。人の目がありますから」

「承知している。すぐに離れるから、少しだけ許してくれ」


 驚いた椿だったけれども、童のように甘える春正を、それ以上は叱れない。仕方ない子だと言わんばかりに、微笑みながら彼の頭を、白く細い指で撫でた。

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