第7話 花見
春が来て、満開の桜の下を、椿と春正は寄り添って歩く。
人里近くにある桜の名所は、大勢の人であふれている。権力を使って立ち退かせる武家もいるけれど、水嶌の者はそれを良しとはしない。
民たちと共に花を楽しむか、彼らが普段入らぬ山の奥に入り、桜を愛でるのが恒例だった。
「寒くはないか? 足が痛くなったら言うのだぞ?」
「春正様、私はそれほど弱くはありませんよ?」
何度も問う春正に、椿は苦笑を洩らす。
しかし春正が言う通り、山道は女の足には辛いだろう。椿の手を引きながら、春正は何度も彼女の足下に目を向ける。
「そうは言うが心配なのだ。やはり抱いていこう」
「もう、自分で歩けますから」
真綿で包むように気遣う春正の言葉がくすぐったくて、椿は怒ったふうを装ったのに、すぐにくすくすと笑ってしまった。
対して春正は、叱られた子供のような顔をして肩を竦めたあと、共に笑い出す。
「おいで、椿」
「はい」
春正の大きくて頼りがいのある手に支えられながら、椿は桜に覆われた山を登っていく。一等、桜が美しく咲く場所で、二人は腰を下ろし、持ってきた弁当を広げた。
鯛の塩焼きに
春正は箸を伸ばし、美味そうに頬張った。
「こうして二人で花見をするのも八度目か。椿が用意する弁当は、年々豪華になっていくな。毎年楽しみだ」
「春正様はいつも美味しそうに食べてくださるから、つい張り切ってしまうのです」
梅干しの入った握り飯を手にした椿は、懐かしそうに目を細める。
初めて二人で花見をしたのは、嫁いだ翌年の春のこと。桜が山を薄紅色に染めた頃、明日は花見に行こうと、春正が椿を誘った。
水嶌家では以前より、桜が咲くと奥方の
その話を聞いていた椿は自分もと、早起きをして弁当の準備を手伝った。
大したものではない。下女に教わりながら握った握り飯と、菜の花の味噌和え、そして香の物。それだけだ。
けれど桜の下で椿が広げた弁当を見た春正は、
「美味そうだな」
と、満面の笑みで手を伸ばす。
握り飯は塩加減を間違えたのか、椿は一口食べると、きゅっと口をすぼませてしまった。それなのに春正は、美味い美味いと喜んで頬張っていく。
「美味い食事を作る妻を持てて、私は三国一の果報者だ」
笑顔の春正が眩しくて、椿も自然と笑顔になった。
そんな幼い頃の思い出を椿が懐かしんでいる間に、春正は弁当を平らげ、野原に横たわる。
「椿も転がってみろ。空に桜が溶け込んで、美しいぞ」
「ですが」
「構わぬ。私が許す」
「はい」
椿は春正の隣に横たわった。すかさず彼女の頭の下に、春正の腕が潜り込む。
白藍色の空を背景に、満開の桜が色を添える。風が吹くと花吹雪が舞って、桃源郷に来たかと錯覚させる幻想的な景色を作り出す。
二人は時折顔を見合わせては、どちらかともなく嬉しそうに笑った。
知らぬうちに互いの体が密着しているが、どちらも指摘しない。ただ空を見上げ、幸せな時を過ごす。
「何を考えているか、当ててやろうか?」
「私の心が読めまするか?」
「椿の心なら、私の心も同然だ」
引き寄せた椿のこめかみに、自分のこめかみを添わせ、春正は昔のことを語り始めた。
春正と椿が二人で花見に来た八年前の春。朝の内は晴れていたのに、弁当を食べ終えて横になっていると、空の端から雲が現れた。
「いかぬ。帰るぞ、椿」
「はい」
慌てて起き上った春正に促されて、椿も急ぎ立ち上がる。手早く帰り支度をしている間にも、空はどんどん暗くなっていく。
手を引かれて足を急がせる椿を、春正は心配そうに何度も振り返った。
彼一人ならば、もっと早く山を下りられただろうが、彼女の手を離しはしない。
椿は走り慣れない自分の足の遅さをもどかしく思いながら、必死に足を動かす。けれど彼女の足は、その速さに耐えられなかった。
「きゃっ」
「椿!」
足をもつれさせて転びかけた椿を、春正が抱き止めて支える。
「申し訳ありませぬ」
「構わぬ。私が急がせ過ぎたようだ。さ、乗りなさい」
背を向けてしゃがむ春正が、何を求めているのかくらい、椿にも分かった。
しかし山を下りるまではまだ距離がある。椿を背負って進むのは、いかに年上の男といえど、まだ少年の春正には辛かろう。
そう考えた椿は、彼の背に乗るのをためらった。
「若、それがしが」
「よい。椿は私の妻だ。私が背負う」
気を利かせて名乗り出た成貞をたしなめ、春正は椿に改めて促す。
「さ、遠慮するな。乗りなさい」
それ以上、椿が固辞することなどできようか。申し訳なさそうにしながらも、春正の背中に身を預けた。
四つ上の春正の背中は、椿より一回りどころか二回りも三回りも大きい。実父である境谷明政や義父国正に比べれば小さいとはいえ、彼女にはとても頼りになる、温かな背中だったことだろう。
背に負われた椿は、体の力抜いて春正に身を預けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます