第6話 正妻

「椿、私はそなた以外の者を娶るつもりはない。そのような顔をしてくれるな」


 椿の苦しみを感じ取った春正までが、苦痛に堪えるように眉根をぎゅっと寄せて、彼女を痛ましげに見つめた。

 はっと顔を上げた椿は、己のしくじりを責めるようにしわを集めた眉を下げると、春正から顔を逸らしてしまう。


 武家に嫁いだ女が側室を認められないなど、恥ずべき思考だ。家を支える子を多く儲けることは、家を継ぐ者たちにとって、大切な務めの一つなのだから。


「申し訳ありません」

「椿が謝ることではない。そもそも側室を迎えるのは、世継ぎを生すためだ。子が出来ぬのであれば仕方ないかもしれぬが、私たちはまだ焦る年ではないのだから」


 不安そうな椿を安心させようと、春正は柔らかな微笑を零す。けれど椿の心は落ち着かないままだ。

 そんな椿から顔を国正に戻した春正は、怒気を隠さず父を睨み付ける。

 渋い顔つきの国正は、春正には目を向けず、椿に問う。


「椿、お前はどう思う? 末姫様を迎え入れたとして、上手くやっていけそうか?」

「父上」


 春正が咎める声を発するが、国正は真っ直ぐに椿を見つめ、息子の言葉を黙殺した。


 ためらいながらも、椿は想像する。

 たとえ末姫が嫁いで来ようと、椿が側室に落とされようと、春正が椿に冷たくすることはないだろう。

 しかし、今まで彼女に向けられていた愛情の半分は、末姫に向けられてしまうのだ。

 それを悲しく思わぬ女がいるものか。


 込み上げてくる苦痛を堪えるため、椿は下唇を噛む。

 けれども椿は、水嶌家の嫡男である春正の嫁だ。水嶌家のためになる選択をしなければならないと、心を決める。そして、国正の目を真っ直ぐに見返した。


「私は、耐えられまする」

「椿?」


 悲痛な声を上げたのは、春正のほうだ。眉を八の字に下げて、悲しげな面持ちで椿を見つめた。

 椿はそうではないと首を横に振る。春正を別の女性に奪われても、平気というわけではないのだと。


「私は、春正様を信じております。だから耐えられまする。共にいられる時間が短くなろうとも、春正様のお心は私にも向けられていると、忘れられてなどいないと、思えるから」


 そうはっきりと告げた彼女だったが、目からは一粒の涙がこぼれ落ちる。


「あ……。申し訳ございませぬ」


 ぎゅっと目をつむった椿は、深く額づき顔を隠した。

 涙を飲み込む彼女を、ふわりと温かな衣が包む。椿が顔を上げると、すぐ傍に春正の顔があった。


「大丈夫だ、椿。思い詰めさせてすまない。不甲斐ない私を許してほしい」

「いいえ。いいえ、大丈夫です。私は平気です」


 かぶりを振る椿を、春正は優しく撫でる。私が大切に思っているのは、そなただけなのだと、言葉にせずとも、大きくて温かな手は語っていた。

 息子夫婦のやり取りを見て、国正は胸やけ気味の腹から息を太く吐く。


「もうよい、二人とも下がれ」

「はっ」

「お心に添えず、申し訳ありません」


 虫を払うように手を振る国正に挨拶して、春正と椿は、自分たちが暮らす棟に戻る。そして部屋に戻り二人きりになると、春正は椿から不安を払拭するため、彼女を抱きしめた。


「椿が自分を責める必要はない」

「そうでしょうか?」

「無論だ。私は椿以外の娘を嫁に迎える気はないし、仮に椿がいなくとも、あの姫は無理だ」


 春正の声に滲む嫌悪感に驚いて椿が顔を上げると、彼は眉間のしわを、わざとらしく深める。


「あの御方は、武家の妻にはなれぬよ。可愛がられるだけの側室に据えるのでさえ、家にいさかいをもたらしかねん。正室になど据えれば、常に見張りが必要となろう。おちおち戦にも行けぬわ」


 そう言った春正の顔は、栄螺さざえの肝を噛んでしまったかのように、苦く歪んでいた。

 椿は冗談だと思ったようだが、春正は本気だ。


「いっそ、比良ひらの家にでも送ればよいのに」

「まあ」


 比良家は長田家と長らく争っている家である。

 和睦の印として、敵対する相手に娘を嫁がせることは多い。

 しかし、中から崩すために送ろうなどとは、普通は考えない。考えるとしたら、利発な姫に策を与えて、命がけの働きをしてもらうという謀略であろう。

 それを、ただ嫁がせるだけで成し得ると考えているのだから、どれだけ問題のある姫君だと春正が認識しているか、分かろうというものだ。


 椿は冗談とも本気とも取れない春正の言葉に、それほどに酷い姫がいるのだろうかと、不思議そうに首を傾げてしまう。


 結局、春正が首を縦に振らないので、国正は澄明のもとを訪れ、平身低頭で末姫の嫁入りを辞退した。

 元々長田家に比べて、水嶌家は地位が低すぎる。春正が戦に出るようになってから徐々に上向いてきているが、それでもなお、家格は釣り合わぬ。

 大切な末姫様が嫁いで来られても、苦労させてしまうのではなかろうかと、過分に心苦しさを含ませて国正が伝えれば、娘が可愛い澄明も、確かにそうかもしれぬと納得した。


 とはいえ澄明が引いたのは、それだけが理由ではあるまい。

 新年早々、末姫が春正に対して行った横暴は、長田家に従う多くの家の者たちに目撃されている。

 もしも椿を離縁させるなりして末姫を嫁がせたなら、家臣たちの間に不信感が芽生えかねない。それは内からの崩壊を招くと、澄明も理解していただろう。

 末姫の言動に怒り心頭だった春正だが、彼女が仕出かしてくれたことは不幸中の幸いだったかもしれないと、密かに安堵の息を吐いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る