第5話 縁談

 松の内が明けて、正月の浮かれた気分も消えてしばらくのある日。春正は火鉢に手をかざして暖を取る、父国正と睨みあっていた。

 二人の間には、一通の書状がある。主君に当たる長田澄明ちょうめいからの文だ。内容は、澄明の末の娘である末姫を、春正の嫁に迎えるようにとのお達しだった。

 これを頑なに断る姿勢を崩さない春正に対して、国正から太い息が零れる。彼の顔には苦渋のしわが刻まれていた。


「春正、いい加減に折れろ」

「お断りいたします」


 椿の前ではいつも物腰柔らかく、我を張ることの少ない春正だが、彼女の姿がなければ己の意見をはっきり主張する。

 特に今回の件は、頑として首を縦に振らない。


「家長として命じる」

「なれば父上の跡目は直正にお継がせください。私は直正の臣下に下りましょう。それでもならぬと仰るのであれば、椿と共に家を出まする」

「ならぬ」


 いくら娘に甘い澄明とて、家も継がぬ若造に、愛しい娘を嫁がせたくなどないだろう。だからこそ、春正は嫡男の座を弟直正に譲ると申し出た。

 春正の寵愛を受ける椿を見た末姫が、椿にどんな危害を加えるか、知れたものではない。そんな危険な者を家に迎えるなど、春正は想像するだけでおぞましく思う。


「なにも椿を離縁せよと申しているのではない。椿を側室にし、末姫様を正室に迎えればよい。椿を娶った時は、当家と境谷家の家格はあちらが上だったが、今は逆転している。側室に落としたとて問題はないのだから」

「お断りいたします。私の妻は椿ただ一人。それに父上。武家の定めでは、最初に嫁いだ者が正妻と決まっております。たとえ格上の家であろうとも、後から嫁いでくる者を正妻に据えるなど、横暴でございましょう?」

「椿はまだ幼い。正妻と言ってよいものか」


 武家に嫁いだ娘の仕事は、なにも子を残すだけではない。側室に求められる役目は確かにそうなのだが、正室に関しては、家を取り仕切るなどの務めを果たせられるかのほうが重要だ。

 それゆえに、子を生さないからなどという理由で、正室がその座を側室に脅かされることはない。

 けれど椿はまだ若く、正室としての地位を確立しているとは言い難かった。


「そもそも、あの末姫様に、武家の妻が務まるのですか? 仮に形だけの正妻としたところで、椿の存在に末姫様が納得するとお思いですか?」


 無表情のまま理詰めで問うてくる息子に、国正は苦く顔を歪める。

 公家や武家の結婚は戦略的な意味合いを持つ。本来ならば、主君から嫁を貰うことは誉れであり、断る理由はない。

 たとえ春正自身が嫌だといっても、家長として無理やりにでも話を進めるべき内容である。

 しかし国正もまた、主君との縁を深められるという利点を差し引いても、末姫を家に取り込みたくはないというのが本心だ。


 末姫に対する澄明の溺愛ぶりは、問題視する家臣が現れるほどに度を越していると噂されていた。

 澄明が老いてから生まれた彼女は、欲しいものは何でも与えられ、気に入らぬものは全て排除されている。彼女の機嫌を損ねて手打ちにされた者の数は、他家の比ではないという。

 あまりの内容に、さすがに尾鰭が付いているのだろうと軽く考えていた国正だったが、正月の一件で、真実は噂よりも酷いのかもしれないと、疑いを抱くに至った。


 内側から輪を乱す者など、どんな禍を水嶌家に招き入れるか、分かったものではない。

 だからこそ無理強いまではしていないのだが、主君から持ち掛けられた話を、明確な理由なく断るのは難しい。

 国正は頭を抱えたい気分だった。


「だいたい、私が末姫様とお会いしたのは、正月の一件だけですよ? なぜこのようなことになっているのですか? あの時もすでに、私のことをご存知の様子でした」

「お前の噂を聞きつけてな、女中を連れて瀬田の城下まで見物に来ていたらしい。それでお気に召したそうだ」

「私は珍獣か何かですか?」


 春正は苦々しく眉間にしわを寄せてしまう。

 城の奥深くで護られているはずの姫君が、男一人を見るために出歩くなど、はしたないにもほどがある。それに彼女の身に何かあれば、彼女の傍にいる者たちの首が飛びかねないのだ。

 末姫の行動が、春正には理解しがたい。


「私の噂を聞いているというのなら、私が椿以外の娘に興味がないことも、耳に入っているのではありませんか?」

「今までちやほやされてきたのだ。自分を拒絶する者がいるなどと、思いもよらないのだろうよ。……お前と話していては埒が明かぬ。誰ぞ、椿を呼んで参れ」

「父上!」


 こんな話を椿に聞かせたくないと気色ばむ春正だが、息子よりも当主の命令が優先されるのは当然である。程なくして椿が呼ばれてきた。


「お呼びでございましょうか、御義父上様」


 挨拶をして部屋の中を窺った椿は、珍しく機嫌の悪い春正を見て、微かに困惑した。だがすぐに気持ちを切り替え、国正の指示を待つ。


「入りなさい」

「失礼いたします」


 静々と部屋の中に入ると、椿は下座に落ち付いた。


「長田様の御息女を、春正の嫁にという話が来ておる」


 その言葉を告げられたとたん、わずかではあるが、椿の顔が辛そうに歪む。

 正月に春正から話は聞かされていたし、武家の男が正室の他に、側室を一人か二人娶るのは珍しくない。だから彼女も覚悟はしていた。また、春正から彼女に向けられる気持ちが消えたわけではないとも、理解しているだろう。

 それでも、人の心とはままならないものだ。柔らかな少女の心が傷を負うのは、止められぬ。

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