第3話 百合
「さ、下りるぞ」
春正が手を伸ばして、椿を抱え下ろす。椿は春正に手を引かれて、百合の園を歩いた。
むせぶほどに濃い香りに包まれながら、二人で山百合を眺める。
緑の海原に煌めく大きな白い星たち。うっとりと目を細める椿の肩を優しく抱く春正が、顔を寄せてきた。
「あれが大きくてよいかのう?」
指差しながら、耳元で囁くように問う。
「そちらも綺麗ですけれど、あちらのほうが真っ白で美しいです」
「ではあれを摘んで帰るか?」
「よろしいのですか?」
「構わぬ」
春正は家臣たちに命じて椿が選んだ百合を摘ませて、花束を作らせる。それをいったん自分が受け取ってから、椿に渡した。
椿の顔が埋もれるほどの大きな花束に、微かに驚いた顔をした椿だったけれど、すぐに綻んでいく。
「素敵な花束をありがとうございます」
「喜んでくれたのなら、連れてきた甲斐があったというものだ」
昼を過ぎるころまで百合を楽しんだ二人は、青鹿毛に乗って山を下りた。
百合の園を離れても、椿の胸元に抱えられた百合が、いつまでも濃厚な香りを放ち彼女を包む。
椿が春正の胸に頭を預けると、額を撫でるように彼の頬が触れた。視線を上げればすぐ目の前に愛しい顔がある。
「どうした?」
「なんでもありません。ただ、幸せだなあ、と」
「私もだ」
いつまでもこの幸せが続くのだと、椿も春正も、そして二人を見守る者たちも、信じていた。
◇
二人の前途に影が差したのは、年が明けてすぐのことだ。
年始の挨拶のため、春正は父
控えの間に案内されると、水嶌親子は同じように澄明へ挨拶をしにきていた方々と挨拶を交わす。そうして縁を深めたり情報を集めたりと、忙しく過ごしていた。
そこへ前触れもなく、澄明の末の娘である末姫が、女中を伴い現れる。
常ならば、武家の女たちは城の奥にいて、客の前に姿を見せることはない。
居揃う者たちは内心で驚くが、相手は主君の姫君だ。相手のほうが作法を乱したからといって、礼を欠くわけにはいかぬ。
拳を両膝の隣に突いて伏し、彼女の動向を窺う。
正月らしい、緋色に箔を乗せた鮮やかな小袖をまとう彼女は、齢十六になるという。
公家風の化粧を施し、扇子で顔を隠した末姫は、控えの間の中をぐるりと見回すと、小首を傾げた。
「水嶌春正はどこにおる?」
春正はなぜ自分の名が挙げられたのかと疑問を覚える。作法をわきまえぬ態度に対して微かな不快感も混じり、伏せた顔の下で眉を寄せた。
とはいえ答えぬわけにはいかない。居合わせた男たちの視線も、春正に注がれている。
「それがしにござります」
「おお、そなたか。許す。面を上げよ」
「はっ」
嫌な予感がした春正は、礼を行から草へと変えるに留め、顔を上げることを控えた。
「
「はっ」
なおも視線は下げたままのため、立っている末姫からは春正の顔が見えぬのであろう。
不機嫌そうに目を窄めた末姫は、真っ直ぐに春正に向かってくる。そしてしゃがむと、閉じた扇子を春正の顎に宛がい、顔を上げさせた。
そのあまりに傍若無人な行動に、控えていた男たちはもちろん、末姫についてきた女たちも、眉をひそめてしまう。
しかし末姫はお構いなしだ。
春正の
「ふふ。近くで見ると、ますますよき男じゃなあ」
末姫の声にも表情にも、椿が春正に向けるような、優しさや労わりの感情は垣間見えない。
春正はまるで自分が人ではなく、物として扱われている気がして、不快な気持ちが込み上がってくる。
けれどもそのような感情を、主君の娘に向けるわけにはいかない。目を落として瞳に宿る嫌悪感を隠した。
末姫は春正の感情になど気付かないのか、満足そうな顔のまま、さらに言葉を投げつける。
「喜べ。
この発言には男たちも耐えきれなかったのだろう。控えの間がざわついた。
彼女は主君の娘ではあるが、彼らの主ではない。命令を下す権利がないとまでは言いがたいが、常識を持っていれば、かような暴挙には出ぬ。
春正は突然の申し出を受けて、怒りよりも呆れが勝る。何を喜べと言うのか、末姫の思考が理解できなかった。
とはいえ無言のままでは承諾したとみなされかねない。感情を押し殺し、口を動かす。
「勿体ないお言葉にございます。なれど私は末端の者。末姫様にはもっと相応しい方がおられましょう」
椿がその場にいれば驚いたであろう冷えた声で、春正は末姫の誘いを断った。
この対応に、国正だけでなく、控えの間にいた者たちが揃ってぎょっとしてしまう。
主君の娘を娶るのは名誉なこと。長田家と縁続きになる利益は大きい。金を積んでも嫁に迎えたいと思う者も多いだろう。
それほどの宝を、あっさりと捨ててみせたのだから。
驚く者の中には、肝の据わった若造だと、春正への評価を上げる者もいたかもしれない。だが大半は、罰せられるであろう春正をおもんばかる者や、主君の娘に逆らう若造を、苦い気持ちで睨みつける者ばかりであろう。
緊張を含んだ空気が、部屋を満たす。
その中心にいる末姫は、きょとんと瞬いたかと思えば、きゃらきゃらと笑い声を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます