第2話 城山

「お沙羅の方様、片付けは私がしておきますから、どうぞお出かけくださいませ」

「ありがとう。では後をお願いね」

「はい」


 気を利かせてくれたお鯨に礼を言ったとたん、椿の体がふわりと浮かぶ。春正が抱き上げたのだ。


「春正様、一人で歩けます」

「私が抱えて歩きたいのだ。そろそろやめるよう、父上からも言われてしまったからな。許されるうちに堪能しておかねば」


 切なげに眉を八の字に垂らされてしまえば、椿に拒否などできようものか。困った顔をしたものの、堪えきれなくて、くすくすと笑う。


 嫁に来たばかりの当初、春正は椿を抱きかかえたり、馬に乗せたりして、領地中を連れ歩いた。

 当時は誰が見ても彼女は幼かったため、皆、微笑ましく仲睦まじい若夫婦を見守っていたものだ。

 しかし、椿はすでに幼子おさなごと呼べる年齢を過ぎたどころか、子供と言い張るのも難しくなってきている。

 早く真の夫婦になりたいと思っている二人だが、大人になるのは良いことばかりではなかったらしい。人前で睦み合えば、はしたないと咎められてしまう。こればかりは残念に思えた。


 春正に抱えられたまま庭に下りた椿は、夏つばきの木を見やる。残念ながら、他に咲いている花は見当たらなかった。

 視線を動かせば、藪つばきの青々とした艶やかな葉が、陽光を受けて輝く。花はなくとも、凛々しく美しい木である。

 屋敷の表に辿り着くと、門の付近で春正の家臣たちが待っていた。

 愛馬、青鹿毛あおかげに椿を乗せた春正は、自身も彼女の後ろに跨る。手綱を取って青鹿毛を進めると、門から出た。


「今日はどちらに向かうのですか?」

「城山に行く。見せたいものがあるのだ」


 屋敷の裏手に在る山の上には、水嶌家の瀬田城がある。とはいえ水嶌家の者たちが暮らしているわけではない。

 なにせ険しい山の上だ。そんな所に居を構えれば、日常の生活に不便を強いられてしまう。だから普段は山の麓に建てた屋敷で暮らし、戦の際などにだけ城に上る。


 これは水嶌家が特殊なわけではなく、戦乱の時代の城としては、さして珍しい扱いではなかった。

 城は敵から味方を護るための砦だ。敵の侵攻を防ごうとすれば、どうしたって出入りが難しくなる。住居と両立させるよりも、別けて造ったほうが効率がよい。


 そんなわけで、水嶌家の嫡男と嫁でありながら、春正と椿は屋敷から城山へと向かっていた。


「先に仰ってくだされば、弁当を用意しましたのに」

「それは惜しいことをした」


 もうすぐ昼になる。せっかくならば、見晴らしのよい城山で昼食を取れば楽しかっただろうと椿が言えば、春正が残念そうに天を仰いだ。それから椿の肩に顎を乗せて、拗ねた声を出す。


「椿の作った弁当を食べたかった」

「いつでもお作りしますわ」

「ありがとう。ならば私は、海に行って何か獲ってこようか。何がよい? 椿は雲丹うにが好きだったな」

「雲丹は足が早うございます。弁当には向きませぬよ?」

「では雲丹は屋敷で食べよう。何を獲ってまいろうかな」


 春正はすぐに機嫌を直し、愛しそうに椿の髪を撫でた。


 城山の入り口には門があり、見張りの兵が立つ。


「苦労」

「はっ」


 兵に声を掛けると、春正の姿を確認してから、城門を開く。春正は馬上のまま門を抜けた。

 山を登る道は幾つにも別れ、所々に木柵や橋が設けられている。さらに山の至る所に深いほりがあり、敵の侵入を阻む。


 椿たちを乗せた青鹿毛は、城に向かう道を逸れて進んでいく。

 ゆっくりと進んでいると、なにやら甘い香りが漂ってきた。

 風に乗って鼻腔をくすぐる香りの元を探して椿が辺りを見回すと、真珠のように輝く山百合を見つけた。

 暑さに負けることなく、茎を凛と伸ばし、白く大きな花を咲かせている。花の中には朱色の雄しべが覗く。夜空を照らす月を思わせる、美しい花である。


 百合の美しさに椿が目を奪われていると、手綱を近くにいた成貞に放り投げた春正が、ひらりと馬上から下りた。草むらに分け入り、百合を一本手折る。

 戻ってくると、馬上に座ったままの椿に向けて、掲げるように百合を差し出した。


「椿」

「まあ、綺麗。ありがとうございます」


 百合を受け取った椿は、両手で持って花を目で、鼻に近付けて匂いを嗅いでみる。甘い香りが増して、彼女を包み込んだ。


 椿が百合と戯れている間に、春正は馬上に戻り、青鹿毛を進めた。道中に咲く百合の花は、ますます増えていく。

 そうして右を見ても左を見ても、白く輝く百合に覆われた場所に出た。


「どうだ?」


 青鹿毛の足を止めた春正が、椿の顔を覗き込む。


「とても綺麗です。まるで極楽のよう」

「まだ極楽に行かれては困るが、気に入ったか?」

「はい。とても。連れてきていただき、ありがとうございます」


 春正は嬉しそうに顔を綻ばせると、ひらりと青鹿毛から下りた。

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