椿~花燃ゆる~
しろ卯
第1話 嫁入
まだあどけない少女は、夜も明けぬうちに起こされると、花嫁衣裳をまとわされ、白い小袖を
そして蛍が舞う早朝に、
揺れる輿の中で退屈を持て余しながら、椿の心は生家を離れる不安と、まだ見ぬ花婿への期待で、落ち着かなかった。
幼いとはいえ少女だ。嫁入り相手への夢はある。どんな人だろうかと、想像を膨らませた。
二日掛けて嫁ぎ先の屋敷まで辿り着いたときには、すでに外は薄暗い。
輿は屋敷の中まで乗り入れ、椿は待ち
連れて行かれた祝言の間には誰もおらず、静まり返っていた。椿は床の間の前に敷かれた、赤い敷物の上に
燭台の灯りが隙間風に揺らされるたびに、部屋の色もゆらゆらと揺らめく。まるで小舟に揺られているような錯覚を覚えさせ、椿の目蓋は、どんどん重さを増す。
日が沈み、暑さが和らいでいたのも、椿の気を緩める一因となったのかもしれない。
出立の日は緊張して眠れなかった。
旅の間は輿に乗っていたとはいえ、幼い体には堪える。そして旅の朝は早い。今朝も夜が明ける前に、宿を出たのだ。
幼い椿はとうとう耐え切れず、うつらうつらと舟をこぎ出してしまった。
そんな椿の頬を、涼やかな風が撫でる。
慌てて姿勢を正した椿が顔を上げると、開いた
黒の
椿より年上とはいえ、彼もまだ十一だ。緊張からか顔を上気させ、口を一文字に引き結んでいた。
どんな顔をしているのだろうと気になった椿は、ちらりと目を上げる。
婿の顔を覗くのは作法に反すると禁じられていた彼女だが、興味が勝ったらしい。けれど頭から被く小袖が邪魔をして、結局春正の顔を見ることは叶わなかった。
残念に思いつつ肩を落とした椿は、諦めて大人しく座っておくことにする。
三方に乗せられた三つ重ねの盃を運んできた待ち上臈が、白濁した酒を盃に注ぎ、椿の前に差し出した。事前に教わっていた通り、椿は小さな両手で恭しく受け取って、盃の縁に唇を付ける。
舐めるほども口にしていないのに、ほのかな甘さと共に、口から鼻へと酒精が上っていく。慣れない酒の感覚に、椿は思わず眉をひそめた。
返した盃は隣に座る春正に回され、彼が飲み干す。
この時代の男たちは、年齢を問わずよく酒を飲む。十一といえど、すでに何度か口にしていたのだろう。椿と違い、顔色一つ変えない。
こうして盃を交わした二人は、晴れて夫婦となった。
祝宴の雑煮も食べ終えると、椿は
整った眉の下には優しげな瞳があり、すっと通った鼻筋と、形の良い唇が続く。武士としては精悍さに欠けるが、整った美少年だ。
こんな見目よい少年が自分の夫になるのかと、椿は嬉しく思う。同時に、なにやら恥ずかしさが込み上げてきた。
「椿でございます。
「春正だ。末永くよろしく頼む」
椿が教えられたとおりに三つ指を付いて挨拶すると、春正も頷いて答える。
とはいえ子供同士のこと。教えられた以上のやり取りはなかった。
「眠いのであろう? 寝よう」
椿と春正は帯を解いて小袖を脱ぎ、並んで横たわる。それぞれの小袖を体の上に掛け合うと、自分とは違う匂いが鼻腔に触れた。
お日様の匂いだと思ったのを最後に、椿は夢の中へと落ちていく。
幼い二人が本当の夫婦になるのは、まだまだ先のことだ。
◇
かんかんと照らす太陽に、人も大地も熱せられ、蝉と童だけが元気に声を上げる夏のこと。
午前の日差しを
椿が水嶌家に嫁いでから、七年の歳月が経つ。
幼かった彼女も十四となり、時折女性らしさを垣間見せる少女へと成長を遂げていた。
「椿」
簾が押し上げられて、眩しい光が注ぎ込む。椿が顔を上げると、太陽を背にして白い歯を見せる春正が、庭から顔を覗かせたところだった。
十八となった春正は、すでに初陣も済ませており、もう立派な武士だ。
涼しげな整った顔立ちはそのままに、精悍さと凛々しさが加わっている。そんな彼には、秋波を送る娘たちが絶えないという。
「椿、夏つばきがまだ残っていた」
「まあ、お寝坊さんですね」
縁側に腰掛けて手を伸ばす春正から、夏つばきの花を一輪受け取った椿は、自分と同じ名前の花を、目を細めて愛でた。白い花弁はひらひらと薄く、儚げだ。
二人が暮らす棟の庭には、幾種もの
椿が嫁いできてからというもの、春正は珍しい苗を見つけては買い求め、彼自身の手で育てた。夏つばきもその過程で一株取り寄せたものだ。
真冬に咲く藪つばきと違い、梅雨のころに白い花を咲かせる夏つばきは、別名を
夏に嫁いできた椿は、この沙羅の木から名を採って、水嶌家ではお沙羅の方様と呼ばれていた。
花弁を散らすのではなく、花ごと落とす藪つばきは、潔いとして武家の男たちに好まれる。寒い冬にこそ気高く花を咲かせるのも、武士の
とはいえ、さすがに多すぎはしないかと、国正は渋い顔をしているのだが、春正は聞く耳を持たない。
花を愛しげに見つめる椿を微笑ましく眺めていた春正の視線が、ふと椿の膝元に留まる。先程まで彼女が針を刺していた肌着だ。
「また刺繍を入れてくれたのか?」
「はい。少しでもお役に立てればと思いまして」
椿は春正の妻となってから、彼の持ち物全てに、水嶌家の家紋と鱗文を刺している。
三角を並べた鱗文は、硬い鱗で身を護る、傷を負っても脱皮して回復するなど、縁起のよい意味を持つ。それゆえ戦に参じる武士たちに好まれた。
戦場に付いていくことのできない椿にとって、こうして春正の無事を祈るのは、せめてもの慰めである。
「ありがとう、椿。優しい妻を持った私は、三国一の果報者だ」
「
共に暮らしだしてから七年も経つというのに、二人の仲は冷めるどころか、益々睦まじさを増していた。春正は椿の手元にやった目を、嬉しそうに細める。
「出かけないか?」
椿の花を摘んできたのはついでて、どうやらこちらが目的だったらしい。
「少しお待ちください。片付けますので」
そう言った椿は、手にある花を見て、少し困った顔をした。お鯨に活けるように命じようとした彼女の先手を取って、春正は縁側から上がり、椿の下へ行く。
「貸してごらん」
春正は椿から夏つばきの花を受け取ると、彼女の髪に差し、満足気に頷いた。
「うむ。よく似合う」
うっとりと細められた春正の瞳に映る椿の頭には、白い夏つばきの花飾りが付いていた。
椿ははにかみながら、手でそっと確かめる。指先に、ひんやりとしているのに、どこか温かみを感じる、柔らかな花弁が触れた。
「ありがとうございます」
恥ずかしげに頬を染める椿と、そんな彼女を愛しげに見つめる春正に、部屋にいたお鯨まで顔を赤らめてしまう。
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