第241話 戦場の霧
1065年4月中旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ
雨が降っている。冷たい雨だ。
新大陸へと出発したエイリークの船団はここに居ないけれど、アレクちゃんのギリシア船、そして同盟関係にあるジェノバ、ローマ、アマルフィの船がアルベンガに集結している。
さほど大きくないアルベンガの港では、船員たちが荷物を運び、戦争準備を着々と進めている。
「ギリシアの火が雨に濡れて使えなくなりませんように」
僕の心配を、アメーデオお兄ちゃんが笑い飛ばしてくれる。
「大丈夫だぜ、ジャン=ステラ。ギリシアの火がなくたって、船の数は俺達の方が圧倒的に多いんだ。数で押し潰せばいいのさ。それに知っているか、ギリシアの火って雨が降っていても使えるんだぜ」
たしかにお兄ちゃんの言う通り。僕たちの同盟の方が、船の数ではピサを圧倒的に上回っている。
それに、着火できればギリシアの火は雨の中でも燃え続ける。
その着火が問題なんだけどなぁ。そう思いつつも言い返さないでおく。
だって、船に乗って戦場に向かうのはアメーデオお兄ちゃんであって、僕ではないんだもの。
「そうだよね、僕たち負けないよね」
「ああ、その通りだ」とアメーデオお兄ちゃんが大きくうなずき、自分の体験談を語ってくれる。
「もしかするとバレアス諸島の海賊たちみたいに、ピサも降伏してくるかもしれないけどな」
勇ましく笑っているお兄ちゃんには悪いけれど、それは
バレアス諸島と違い、ピサは明確な敵対関係にある。
イベリア十字軍に参加せず、そしてゴットフリート3世を南仏のアルルに送ったのだ。
今さら一戦も交えずに降伏するとは思えない。
とはいえ総大将のアメーデオお兄ちゃんが楽観的で陽気なのは、船員達にとってはいい事なのだと、エイリークは言っていた。
「上に立つものが負けると思った船団は、本当に負けるのです。そのため総督は勝利を疑わず、大言壮語するくらいで丁度よいのです」
なるほど、そういう見方もあるんだ。
だったら僕の兄弟で一番総督に向いているのはアメーデオお兄ちゃんかもしれない。
「それにしてもゴットフリート3世は、なかなかドイツから戻ってこないね」
ドイツ諸侯を集めて行ったハインリッヒ4世の成人式は、3月末に無事行われた。この報告を受け取ったのは成人式の5日後のこと。
サヴォイア家は、伝書鳩を使った情報網を整備している。
それでも冬のアルプスは伝書鳩も越えられないため、ドイツの情報がアルベンガに届くのに5日もかかってしまうんだよね。
あーあ、こんな時、手元にスマホがあったらリアルタイムで状況がわかるのになぁ。
「義父のジュネーブ伯からの連絡もないんだよな。まったく髭の奴、ドイツで何をしているんだか」
ピエトロお兄ちゃんに続き、昨年末にはアメーデオお兄ちゃんも結婚した。お相手は、ジュネーブ伯令嬢のジャンヌさん。相思相愛のまま結ばれて本当によかったね。
そのジャンヌさんの実家であるジュネーブ伯の領地は、地中海に流れ込むローヌ川の上流に位置している。
ゴットフリート3世は先月、ジュネーブを経由してドイツへと向かった。その時にはジュネーブ伯から「ゴットフリート3世通過」との連絡を受け取った。
イタリアへと戻ってくるゴットフリート3世がジュネーブを経由すれば、同様の連絡をジュネーブ伯は送ってくれることだろう。
それなのに、連絡がない。まだジュネーブを通過していない、で本当にいいのかな。
ゴットフリート3世がジュネーブ伯やトリノ辺境伯家の情報網をかい
アルベンガでずっと船を待機させているのもそのため。
僕たちが気づかないうちにゴットフリート3世がアルベンガ沖を通過した後でした、となったら笑えないもの。
あぁ、ゴットフリート3世に林檎社のAirTagがくっついていたらよかったのに。そうしたらリアルタイムでゴットフリート3世がどこにいるか分かるのになぁ。
情報の大切さを実感しつつ、イライラする日々をアルベンガで過ごしていた僕たちの元に、トリノのアデライデお母様より急報が入った。
ーー 4月3日 ハインリッヒ4世陛下、ケルン大司教アンノ2世の討伐を表明 ーー
今日は4月10日だから、丁度一週間前の情報になる。
情報伝達の遅さに愕然とするが、嘆くわけににもいかない。
一週間遅れの情報であっても、アルベンガで待機している僕にとっては大変ありがたい報告だものね。
それにしても、なんとも物騒な内容だこと。ドイツ王国内で戦争を始めようだなんて、ハインリッヒ4世の正気を疑いたくなる。
「もしかすると陛下は、親政の初めを勝ち
アメーデオお兄ちゃんが難しい顔をしつつ、自分の考えを口にした。
……皇帝ってそんな理由で戦争を始めちゃうものなの?
理解が追いつかない、というか理解できないし、理解したく無い気がする。
そして、気になるのは討伐目的がアンノ2世ってところ。アンノ2世は皇太后アグネスの後任として、ハインリッヒ4世の摂政を務めていた。
実際、ウィーンで催されたハンガリー戦役の門出を祝う宴会に、アンノ2世はケルン大司教として参加していたし、ハインリッヒ4世の肩を持つ発言を繰り返していた。
てっきりハインリッヒ4世の味方だと思っていたんだけど、本当は仲が悪かったのだろうか。実はアンノ2世の片思いだったとか。って、そんなことはどうでもいいや。
問題なのは、ターゲットであるゴットフリート3世の動向。
ゴットフリート3世はケルン攻めに参加しているのだろうか。だからイタリアに戻ってこないのかな。
推測に推測を重ねても本当のことはわからない。
ああっ、もう。いらいらするなぁ。
「それもこれもゴットフリート3世がこの世に存在するのが悪いんだいっ!」
なんて八つ当たりをしていても全く事態は変わらず、続報を待つしかない。
そんな事、わかっているんだよ。わかっていても、不安と
そして数日後、トリノから矢継ぎ早に連絡がきた。
ーー 4月5日 皇太后アグネス様、アンノ2世討伐に反対
ーー 4月6日 シュヴァーベン大公、バイエルン大公も討伐に反対
ーー 4月6日 トスカーナ辺境伯、オーストリア辺境伯は討伐に賛成を表明
ーー 4月7日 ザクセン大公、下ロートリンゲン大公、中立を表明
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