第236話 コマの欠けたチェスとお米

 1064年8月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ


「ジャン=ステラさんにチェスを贈りたいのですが、受け取ってくれますか?」


 初顔合わせの儀で、アニェーゼさんと打ち解けたあと、スペイン土産としてチェス一式をもらえることになった。


 アニェーゼさんの側近であるベルナールが、円卓に敷かれた布の上に一つずつ駒を並べていく。そのどれもが繊細な意匠の細工が施されていて美術品のように見える。


「私がアラゴン王室を去る際、修道院に村を1つ寄進したところ、そのお礼にと頂いたのです。象牙ぞうげを彫って作られたとても素敵な一品なのですよ」


 へー、チェスって11世紀にもうあったんだ。トリノ辺境伯家に生まれてから一度もチェスで遊んだことがなかったから、まだ存在しないのかと思っていたよ。


「アニェーゼさん、ありがとう。チェスのルールはだいたい知っているから、機会があれば一緒に遊ぼうね」


 たしか、飛車や角みたに動く駒や、全方位に動く桂馬があるんだよね。キャスリングという特殊ルールもあったはずだけど、よくわからないや。


 それでも、子供同士で遊ぶだけなら問題ない。そこで、一局対戦しようと持ちかけたのだが、アレクちゃんとアニェーゼさんから疑問の声があがった。


「ジャンお兄ちゃん、チェスって遊ぶものなの?」

 コムネノス家の宮殿にもチェスはあったけど、アレクちゃんは遊んだことはないらしい。


「アレクさん、そうですよね。チェスって執務室に飾る美術品だと思っていました」

 アニェーゼさんも、美術品として献上された品だったと言っている。


 えっ? チェスって美術品なの?


 細かい装飾が施された象牙の駒は確かに綺麗だけど……。


 困惑しつつ、円卓に並べられた駒に目を落とすと何か違和感がある。


 ひとつ、ふたつ、みっつと数えてみると、本当なら32個あるはずの駒が22個しかない。


 さらには、駒を置くためのチェス盤もなく、円卓上にそのまま並べられている。


 これではチェスがゲームではなく、美術品扱いされていても仕方ないのかも。


「僕の知識だと、チェスはトランプとかと同じ遊具なんだよ。あとで一緒に遊んでみない?」


 僕の提案にアニェーゼさんが前のめりになって喰いついてきた。ただし違う意味で。


「ジャン=ステラさんの知識? え、もしかして預言ということですか!」


「あ、うん。そういう事になるのかな?」


 最近はあまり驚かれなくなっていたから、忘れてた。


「え、そんな。アデライデ様がジャン=ステラさんをご自身の後継者にしたいための方便だったのでは……」


 アニェーゼさんが小さな声で何か言っているけど、無視だ、無視。聞こえなかった事にしておこう。


「ジャンお兄ちゃん、トランプって何?」


 そういえばトランプも無いね。


 今更だけど、アレクちゃんの質問でそのことに気づいた。


 じゃんけんも存在しないし、食べ物も基本、味が薄くて美味しくない。11世紀のヨーロッパって本当に娯楽が少ない世の中なのだと、改めて実感する。


「今度、暇があったらトランプを作ってみるね。トランプはいろんな遊び方ができるから、みんなで遊ぼう」


 そうそう、トランプで思い出した。トランプで遊ぶならついでにサンドイッチも作ってみようかな。


 マヨネーズたっぷりの卵サンドはどうだろう。アレクちゃんの新しい好物になっちゃうかもね。


「ジャン=ステラ様、そろそろお食事をお持ちいたしましょう」


 三人の会話に少し間が空いた頃を見計らい、アデライデお母様の副執事が声をかけてきた。


 給仕達が丁寧な手つきでナイフとフォーク、そしておはしを円卓に並べていく。


 それを見ていたアレクちゃんが、お箸の使い方をアニェーゼさんに教え始めた。


「アニェーゼお姉ちゃん、トリノ辺境伯家ではね、この2本の棒で食事するんだよ」

「棒で? 肉に突き刺すのですか」

「ちがうよ~。お姉ちゃんはどうやって使うと思う?」


 教える相手を見つけたアレクちゃんはとっても嬉しそう。


「そうですね。両手に一本ずつ持つ、ですか?」

「ぶっぶー。2本とも片手で持つんだよ。ほら、こんなふうにね」


 こうやって二人の会話をみていると、仲良し姉弟みたいに見えてきちゃうから不思議だよね。


 ふとシュヴァーベン大公に嫁いでいったアデライデお姉ちゃんが脳裏に浮かんだ。同じ部屋で寝起きして、トリートメントで天使の輪っかを作ってあげたりしたっけ。僕たちもあんな風に仲良し姉弟に見えていたのかもしれない。


 その間も給仕係の仕事は続いている。

 メインディッシュの唐揚げとトンカツが円卓に置かれ、次いでパンとスープが並べられる。


「アニェーゼお姉ちゃん、これカラアゲっていうんだよ。ジャンお兄ちゃんも僕もだーいすきな料理なんだっ」


 唐揚げ山盛りのお皿をみたアレクちゃんのテンションが限界突破したみたいで、興奮気味にカラアゲの美味しさをアニェーゼさんに語っている。


「レモンの汁をかけるのも美味しいんだけど、マヨネーズをつけて食べるのが一番のおすすめだよ。ジャンお兄ちゃんは、塩だけでも美味しいって言うけれど、僕は断然マヨネーズ派。アニェーゼお姉ちゃんにもマヨネーズの美味しさを知ってほしいな」


 あまり食べすぎると太っちゃうよって二人に注意しようとした時、僕の目が運ばれてきた料理に吸い込まれてしまった。


「あれ、ライス、だよね……」


 小さなお椀にちょっとだけ入った小さくて白いつぶつぶ。日本のお米と違って細長いインディカ米とはいえ、元日本人の僕が見間違えわけがない。


「あら、ジャン=ステラ様はライスを見るのは初めてですか?」


 僕のつぶやきを拾ったアニェーゼさんが小首をかしげつつ尋ねてきた。


「いえ、初めてではあるんだけど……」


 どう説明したらいいのか分からず、ちょっと口ごもってしまった。

 前世でお米は散々食べてきたけれど、イタリアに生まれてきてからは初めて見るんだよね。


 そうなのですねとアニェーゼさんが得心したあと、ライスについて説明してくれた。


「このライスという白い食べ物は消化を促進するお薬でもあるんですよ。


 私は食が細かったため、スペインに居たころはよく食事に出てきていました。砂糖をかけて食べると美味しくて、胃もたれによく効くのです。


 ぜひジャン=ステラさんも食べてみてください」


 そういって、アニェーゼさんが僕にライスを勧めてきた。


 日本人の記憶を持つ僕としては、西洋人にライスを勧められることに違和感がある。でも、白米の誘惑の前にはささいな事。


 僕は今、すごく久しぶりの白米にわくわくしてるんだもの。


 ぱくっ。


「あまっ」


 砂糖のかかったゆで白米は柔らかく、そして甘かったです。


 ■■■ 嫁盗り期限まであと1年 ■■■


 ーーーー

 あとがき

 ーーーー

 ●チェス

 11世紀初頭にスペインで王が死亡した際、修道院にチェス一式を奉納するという記述がありました。当時はチェスは将棋みたいな遊び方はされておらず、遊ぶとしても、さいころ遊びの一種として扱われていたようです。


 なお、さいころを使ってどんな風にチェスで遊んだかは分かりませんでした。


 また、チェス独特の白黒模様のチェッカーボードもこの時期には存在していませんでした。


 ●お米

 11世紀頃には、イタリアのポー川やフランス南部の湿地帯でお米栽培が開始されていた模様です。さらにそれ以前からスペインでもお米栽培は始まっています。10世紀頃、イベリア半島を征服したアラブ人によってもたらされました。


 これらのお米はインディカの長粒種であり、大半は色も白くはありません。ほとんどが野生種の赤米や黒米だったことでしょう。そして白いお米は王族、上級貴族しか口にできない貴重なものだったと推察しています。


 なお、これは日本のお米も同じです。庶民が口にするのは黒米が基本でした。そのため赤飯がお祝い事に使われたとどこかで習いました。

 白米が主流になったのは、江戸時代に入り、精米技術が発展してから。戦国時代の一般庶民は白いおにぎりという贅沢品を口にすることは、基本的になかったことでしょう。

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