第228話 教皇勅書
1064年8月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ
「エイリーク! おかえり! いつ戻ったの! 島はあった? 芋とトウモロコシは?」
執務室に入ってきたエイリークの姿をみた僕は大興奮。ガタッと席を立ち上がり、エイリークへと矢継ぎ早に質問を飛ばしまくった。
ヨーロッパからカナリア諸島経由で、新大陸へと向かったエイリークが戻ってきた。
カリブ海の島に無事、到達できたのかな。それが気になって仕方ない。
だって、新大陸発見だよ! それもコロンブスより400年も早いんだよ!
そんなエイリークへの質問は、護衛のロベルトに
僕の背後から、こそっと耳打ち。
「ジャン=ステラ様、イルデブラント様を優先してください」
そうだったね。エイリークと一緒に、枢機卿のイルデブラントも入室してきたんだった。
身分から言えば、間違いなくイルデブラントを優先しないといけない。でも、新大陸、気になるぅ。
もう、なんで二人一緒にやってくるんだよぉ。なんて八つ当たりしないようにしなくっちゃ。
そんな僕を、イルデブラントが苦笑しつつ見ている。
でも、仕方ないでしょ。だって、ピザへの第一歩なんだもん。
「ジャン=ステラ様、ご無沙汰しております。本日は教皇猊下からジャン=ステラ様への特使としてアルベンガに参りました」
イルデブラントの
もうっ。はやく用件を言ってよ。イルデブラントの用事を終わらせないと、エイリークと話せないじゃない。
僕がちらちらとエイリークの方ばかりを見ていたからか、イルデブラントの話題はエイリークで始まった。
「ジャン=ステラ様、エイリーク殿とは先ほど離宮内でばったり会っただけなのです」
「え、そうなの?」
「はい」と、イルデブラントがゆっくりと首を縦に振る。その顔には苦笑が浮かんでいる。
「エイリーク殿が何やら困っている様子でうろうろしておりました。
気になってしまい声をかけたところ、ジャン=ステラ様にお会いしたいと懇願されたのですよ」
おーい、エイリーク、一体何をしていたの?
面会予約を申し出てくれれば、僕はすぐに許可を出したのに。
ふとエイリークの顔を見ると、何やら思いつめているみたいで、顔が青ざめていることに気がついた。
しかし、エイリークは入室してからずっと口を開いていない。押し黙ったままで、今も何か訴えかけるような目で僕を見ている。
例えて言うと、そう、犬だね。お留守番を命じられた小型犬が「僕を見捨てないで」ってじーっと飼い主を見つめている。そんな感じ。
それはさておき、どうしたんだろう。新大陸への航海に失敗しちゃったのかな。
別に失敗の1回や2回をしたところで、叱ったり怒ったりしないよ、僕。
とはいえ、話す順番は偉い順と決まっている。イルデブラントは教皇の特使だって言っていたし、エイリークを優先するわけにはいかないもの。
さっさと教皇の用事を片づけることにしよう。
「イルデブラント。早速で悪いんだけど、教皇の用件を聞かせてくれるかな」
「はい、ジャン=ステラ様。こちらの書状をご覧ください。教皇猊下の親書となっております」
イルデブラントが差し出してきた羊皮紙を、従者のファビオが受け取り、僕へと渡してきた。
羊皮紙は丸められており、教皇を示す「SPASPE」と書かれた
「たしかに、教皇の親書を受け取ったよ。どれどれ」
親書を開封し中身を確認する。
最初の2行は教皇勅書の定型文になっていて、3行目に用件が書かれていた。
ーーーーー
アレクサンデル 司教にして神のしもべのしもべ
ここに始まる
教皇の名において、カナリア諸島王ジャン=ステラ・ディ・サヴォイアに要請する
イベリア十字軍に参加せよ
・・・・・・
ーーーーー
5行目以降は、勅書の内容に関する詳しい理由が書かれていて、最後に鉛製の印章が添えられていた。
「ちょっとまって。十字軍? それに、これって教皇勅書だよね」
イルデブラントから渡された書状は、教皇勅書の様式で書かれている。
特徴的な書き出し「司教にして神のしもべのしもべ」は、アデライデお母様に見せてもらった勅書と同じ。
すなわち、この手紙は親書ではない。教皇勅書、つまり教皇の命令書である。
僕の叫ぶような声をきいたイルデブラントは驚くふうもなく、ふぅ、と息を
「やはり、親書ではありませんでしたか」
イルデブラントは、僕宛ての親書だと教皇に渡されたらしい。
「ジャン=ステラ様にお読みいただき、中身について了承いただくよう交渉せよ、と命じられています。
して、内容は、イベリア十字軍への派遣要請で間違いございませんか?」
「うん、そう書いてあるよ。それにしても十字軍かぁ」
十字軍。これは歴史の授業で習った。エルサレム奪還のために、西ヨーロッパのキリスト教徒が中東に遠征したんだよね。
一時はエルサレムに国を作るほど成功したけれど、最終的にはイスラム勢力に撃退されちゃった。
正直に言って、十字軍に良い印象はない。宗教の狂気って感じがするんだもん。
(関わりたくないなぁ、いやだなぁ)
そんな気持ちが顔に出ていたのか、イルデブラントは断ってもいいのだと、言い出した。
「ジャン=ステラ様、それほどお嫌でしたら、お断りしてもよろしいのですよ」
あれ? 教皇特使が、教皇の肩を持たなくていいの?
「え、本当に断ってもいいの? 後でイルデブラントが教皇に怒られちゃわない?」
「嫌味の一つや二つは言われるとは思います。しかし、アデライデ様の留守を狙っての交渉に、私は納得していないのです」
別に命が取られるわけでもなし、とイルデブラントが笑みを浮かべた。
教皇は、アデライデお母様がアルベンガを不在にしているこの時期を狙って特使を派遣した。
その理由は、以前、僕の王位戴冠をローマで行うと言う教皇の提案をアデライデお母様が断ったから。
「この教皇勅書には「カナリア諸島王」と記しています。これにより戴冠式をしなくてもジャン=ステラ様の王位を認めると、暗に示しているのです。
その上で、その対価としてイベリア十字軍への参加を求めています」
つまり、十字軍参加とひきかえに、僕の王位を教皇が公認する、というわけね。
「でも、アデライデお母様なら、この条件は飲まないんじゃないかな」
だって、カナリア諸島王位は、世界を二分する条約を結ぶときの条件だったもの。
その王位の公認を使い、もう一度条件を突きつけるのって筋が通らない。
「ええ、私もそう思います。しかしアデライデ様が不在の今なら、ジャン=ステラ様に了承いただけるかもしれない、と教皇猊下はお考えになったのです」
つまり、僕ひとりが留守番している今が交渉のチャンスだと急な特使派遣となったらしい。
うーん。僕、なめられてるんだなぁ。まぁ、いいけどさ。
「なるほど。僕一人ならどうとでも言いくるめられるだろう、という事なんだね」
「その通りです。我々はジャン=ステラ様の
それが当然の反応だとは予想もつく。だって僕、まだ十歳だもんね。
直接会って話をしたならともかく、教皇とは面識が一切ないもの。きっと僕を預言者だと教皇が認定してくれないのも、アデライデお母様の策略だと、心の片隅で信じているんだろう。
「うーん、どうしよう」
教皇勅書に目を落としつつ、考えを巡らす。
断ってもいいけれど、イルデブラントが教皇庁で不利な立場になるのも避けたいんだよね。
だって、教皇庁の枢機卿団で唯一、僕の味方だと公言してくれているんだもの。
ローマの西方教会とコンスタンティノープルの東方教会の仲に亀裂が入っている時期だというのに、トリノ辺境伯家にはアレクちゃんがいて、コンスタンチノープル帝都大学の教授陣がいる。
アデライデお母様と僕は東方教会に肩入れしているように見えているだろう。
宗教が力をもつ世界という事もあり、西方教会の枢機卿であるイルデブラントが味方であることの意義はとても大きい。
それでも十字軍はなぁ。泥沼に足を突っ込むみたいで二の足を踏んでしまう。
どうせ力を注ぐなら、新大陸とピザを優先したい。
書状に書いてある『カナリア諸島王ジャン=ステラ』という文字が目に入ってきた。
まちがいなく「カナリア諸島王」って書いてある。それも教皇勅書という公式書類に。
この書状があれば教皇が僕の王位を認めている事を証明できるから、アニェーゼさんの席次問題も解決できる。
アニェーゼさんのため、ピエトロお兄ちゃんのお嫁さんのためって言ったらアデライデお母様も納得してくれる、かな?
お母様が了承してくれるかもしれない。それなら、十字軍の参加を前向きに考えてもいいよね。
「ねえ、イルデブラント。十字軍に参加するとしたら、僕は何をすればいいの?」
お金を出して、はいおしまいっ。それでよいのなら速攻でOKするけれど、そんな簡単にはいかないよね。
教皇勅書には「イベリア十字軍に参加せよ」と書いてある。
イベリアということは、スペインの半島に攻め込めって言われるのかな?
十字軍への参加を前向きに考えたとたん、取り留めのない思考がぶわーって僕の心に溢れてくる。
そういえば、アニェーゼさんの元嫁ぎ先のアラゴン王国ってイベリア半島にあったよね。
アニェーゼさんの元旦那さんは戦死したって聞いているけど、もしかしてイスラムの国と戦って亡くなったのかな?
あ、そうか。イベリア十字軍ってレコンキスタだ。これも歴史で習った。スペインからイスラム勢力を追い出す協力をしろってことなのね。
そうかそうか、と色々納得しつつあった僕に、イルデブラントが参加条件について話し始めた。
「バレアス諸島のイスラム海賊を討伐してください。これが教皇猊下のお望みです」
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