第226話 円卓の意味

 1064年7月下旬 南フランス ナルボンヌ アニェーゼ・ディ・ポワティエ


 うるさく鳴いていたプロヴァンスの蝉たちも、夕日が沈む頃には大人しくなりました。


 暑さの苦手な私ですが、夏の夕方はお気に入りの時間です。


 涼しくなってきた夕方の空気に響く「ジジッ」という短い鳴き声が、

「俺たち日中頑張ったから、もう疲れたぁ」と蝉が話しているように思えてなりません。


 そのすこしアンニュイな感じが、今日も私の心に溶け込んできます。


 しかしながら、今日の私には物想いにふけることは許されませんでした。


「アニェーゼ様、予定が変更となりました。明朝、ナルボンヌを出港いたします」


 急な予定変更を側近のベルナールが告げてきたのです。


「どうして?」と反発したい気持ちを押し殺し、ちいさく「わかりました」と返答します。


 どうせ、私の意見は採用されないのですもの。


 それよりも、ナルボンヌ最後の夜空を眺める方が有意義というものでしょう。


 思い返すと、ポワティエの宮殿を出発した私たちの旅程はのんびりしたものでした。

 地中海へと抜ける街道をゆっくりと進み、地中海に面した南仏の港町ナルボンヌへと到着しました。


 そしてナルボンヌでは、以前の婚家であるアラゴン王家からの結婚祝いを受け取る手筈てはずとなっていたのです。


「アラゴン王家も、トリノ辺境伯家との繋がりを求めているのだろうよ。お前の結婚に箔をつけるためにも祝いの品は受け取っておくように」


 私を送り出す送別の宴において、酔いの回りつつあった叔父様は上機嫌でのたまったものです。


 それなのに、予定を大幅に早めての出港です。

 未だアラゴン王家の祝いの品が届いていないことを考えると、何か急を要する事態が起こったということなのでしょう。


 私は夏のお星様に祈りを捧げます。

「その何かが、私の運命に悪影響を及ぼしませんように」



 翌朝、地中海に面した都市ナルボンヌを出港した私たちは天候にも恵まれ、追い風を受けた船はアルベンガへの海路を順調に消化していきます。


 そのアルベンガへと向かう船上にて、私の側近であるベルナールが交渉を自分に任せろと言ってきました。


「アニェーゼ様、アルベンガに到着しましたら、トリノ辺境伯家との交渉は私、ベルナールにお任せください。


 トリノ辺境伯家におけるアニェーゼ様の地位が少しでも高くなるよう、尽力いたします」


 先日までアキテーヌ公爵家の宮中司祭を勤めていたためでしょうか。ベルナールの弁節は自信にあふれており、かつとてもさわやかです。


 彼ならば上手くやってくれる、そう信じたくなるような雰囲気を身にただよわせています。


 ただし一点残念な事は、ベルナールは私の意図よりも、アキテーヌ公爵である叔父様を優先することが明白な事でしょうか。


「叔父様の意向でもありますし、トリノ辺境伯家との交渉はベルナールにお任せいたします。ですが、あえて波風を立てないよう、お願いしますね」


 私の望みは平穏なのです。

 しかし悲しいことに、ベルナールに私の気持ちは届きませんでした。


「アニェーゼ様、交渉は最初が肝心なのです。一度弱い立場に立たされたが最後、その失点を挽回するのには大変長い時間が必要となるのです。


 ガツーンと一発、かましてやりましょう。それがアキテーヌ公爵家の勢威をあげることにも繋がります」


 頭がくらくらしてきました。ベルナールと私は同じ言語を話しているはずですよね?

 どうしてベルナールは私の言葉を理解してくれないのでしょうか。


「あぁ、ベルナール、そんな事を言わないでください。私の望みはトリノ辺境伯家で、穏やかに過ごすことなのです」


 私は少し涙目になりつつも再度、ベルナールに私の希望を伝えました。


「なぁに、このベルナール。クリュニー修道院において、さらにはアキテーヌ公爵家の宮中にて弁舌を磨き続けてきたのです。ご安心ください。アニェーゼ様の悪いようにはならないでしょう」


 あぁ。このような側近をつけられてしまうとは……。


 そして、やはり私は運に見放されているのでしょうか。

 到着早々、ベルナールはトリノ辺境伯家と騒動をおこしてしまいました。



 1064年7月下旬 南フランス ナルボンヌ ベルナール


 元々、アニェーゼ様のアルベンガ到着は9月だった。


 その予定を大幅に前倒ししたのは、驚きの情報がクリュニー修道会からもたらされたからである。


「なにっ! アデライデ様がアルベンガを離れたと?」

「はい、三男オッドーネ様と共にアスティへ移動しました」

「ジャン=ステラ様は?」

「そのままアルベンガに滞在しています」


 トリノ辺境伯家の権力を一手に握っているアデライデ様がアルベンガを不在にした。

 それは、ジャン=ステラ様が一人で留守番している事を意味している。


 ジャン=ステラ様は、アニェーゼ様の婚約者であるピエトロ様と後継者争いをしている政敵であり、また私が私淑しているクリュニー修道院ユーグ様の怨敵なのだ。


 剛腕・辣腕・冷酷無比で有名なアデライデ様さえいなければ、十歳の子供であるジャン=ステラ様を手玉に取るなど私にとって赤子の手をひねるようなもの。


 ジャン=ステラ様とトリノ辺境伯家が見せた隙を見逃してなるものかっ。


 即断即決。

「予定を変更し、アルベンガへと出港いたします」


 足に手紙を括りつけた伝書バトを、アキテーヌ公爵へと飛ばす手筈を整える。



「ベルナール様、予定より1ヶ月も早着するのは失礼にあたりませんか?」

「馬鹿者! そんなもの後でどうとでも言いくるめられるわっ!」


 部下の的外れな助言を一喝して黙らせる。


 まったく、この役立たずめっ。こんな千載一遇のチャンスを逃してどうする。


 果たしてその結果は吉と出た。

 いきなり初対面の儀で隙をみせてくれるとはな。


 我がことながら運がいい。


 くっくっく、と笑い声が出そうになる。


 だが、これでこそアニェーゼ様に予定短縮の無理をお願いした甲斐があったというものだ。



 1064年8月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ベルナール


「アキテーヌ公爵の息女であるアニェーゼ様を、ジャン=ステラ様と同格扱いするというのですか!」


 怒りを偽装した私の怒鳴り声が小部屋に響く。相対あいたいするは、アデライデ様の副執事。



 アニェーゼ様とジャン=ステラ様との初顔合わせの儀で、想定外の揉め事が発生した。


 いや、想定外というか、貴族社会の慣習としてありえない事態に遭遇したというべきだろうか。


 側近の役割として、私は顔合わせの儀の事前確認をトリノ辺境伯家側の担当者と行った。


(ああ、面倒であるな)

 船旅で疲れた体を休ませたい気持ちを押し殺しつつ、案内役に先導されて謁見の前に向かう私の心情がこれだった。


(どうせ型どおりに確認するだけなのだ)

 顔合わせのような式典は儀礼の形式が決まっている。まずまず間違いなく、既に知っている進行手順の確認だけだろう。当然そうなると確信していた。


 しかし、謁見の間に一歩踏み入れた瞬間、疲れを忘れるほどの驚愕きょうがくに襲われた。


(な、なんだ、これは...…)


 初対面の儀を執り行う謁見の間には、丸いテーブルが一つ、部屋の中央に置かれているだけだった。


 身分を表す上座の段がない。

 テーブルに配置された3つの椅子も、豪華ではあるものの全く同じ造りをしている。


 正に異質な空間がそこには展開されていた。


 貴族であれば、家族の会食ですら当主とその他とでは扱いが違うのだ。

 一目で当主の席と、その席次がわかるようになっている。


 しかるに、ここには丸い机が一つ。いったい、この机の配置は何だ。何を意図している?


 正直理解が追い付かない私だったが、そういえば、と思い出すことがあった。

 それはローマの教会を訪問した時の事。

 お忍びと称して、平民の町で遊んだ経験がある。


(平民が経営する食堂なら、このような配置もありえるだろうか)


 ここが貴族の離宮であることを卓上の花飾り、テーブルクロスと豪華な椅子が主張している。


 しかし、それらを取り除いてみたらどうだろう。円卓は列席者の身分差を考慮せずとも済む平民のものだろう。


 私の勘は正解であった。


「円卓を使う理由は身分の上下の差を曖昧あいまいにするためなのです」と、トリノ辺境伯家の副執事は言う。


 そのような慣習を私は知らない。知らないが、私の関与しない場所でなら好きにすればよい。


 しかし、アキテーヌ公爵家の姫君たるアニェーゼ様を巻き込むというのなら、私が看過するわけもない。


「馬鹿な事を申されるな。トリノ辺境伯家は、貴族の根幹である権威を崩そうとしているのか?」


 一体、トリノ辺境伯家は何を考えているというのか。

 私が口にした内容は辛辣しんらつなのだが、困惑が収まっていない私の言葉には力がなかった。


 そのせいか、愛想笑いを浮かべる副執事は、私の態度に頓着とんちゃくせず説明を継続している。


滅相めっそうもございません。そのような貴族の壁を壊すような事をジャン=ステラ様はお望みではありません。


 ひとえにトリノ辺境伯家の一員となられるアニェーゼ様と、親しく交流を持ち、会話を楽しみたいだけなのです」


 ここまでは私も耐えられた。アキテーヌ公爵家とトリノ辺境伯家の両家が親しい間柄となり、紐帯ちゅうたいを強めることは重要な事であろう。


 しかし、その親交が貴族の矜持きょうじをないがしろにしてどうする。


 だからこそ、次の言葉を聞いた私は声を荒げた。荒げざるをえなかったのだ。


「アニェーゼ様の席は円卓のこの椅子となります。そしてジャン=ステラ様はこちらに座られます」


「ふざけるなっ! アキテーヌ公爵の息女であるアニェーゼ様を、ジャン=ステラ様と同格扱いするというのですか!」


 アニェーゼ様はトリノ辺境伯ピエトロ様に嫁がれるのだ。ピエトロ様の家臣であるアオスタ伯ジャン=ステラ様と同格であろうはずがない。

 同格に扱われてとする者がいるはずもなかろう。


 貴族社会の自明の理が何故なぜわからぬ、なぜ通用せぬ!


 怒りの感情が胸中で渦巻き、口から吹き出るのも当たり前だ。


「ベルナール様、声が大きくございます。いま別室を準備させますので、お話はそちらで伺います」

「ああ、そうしてもらおう。じっくり説明してもらおうぞ」


 副執事が大慌てで部下に指示を飛ばす様を、憤怒の目でもって睨み続ける。


 しかし、怒りは次第に「舐められてなるものか」という思いに変質した。


 ベルナールよ、落ち着け、我を忘れてはならぬ。これは絶好の機会ではないか。

 そう自分に言い聞かす。


 この失態を用いて、アニェーゼ様の立場を確立する。ジャン=ステラ様を後継者候補から蹴落とせばよい。

 これこそが、アキテーヌ公爵様が私をアニェーゼ様の側近に取り立てた理由。


 そうだ、そうなのだ。役割を果たす千載一遇の機会が今、目の前に訪れているではないか。


 落ち着け、落ち着け、深呼吸せよ。

「ふぅー。はぁーーー」


 息を大きく吸い、大きく吐く。すこし落ち着いた。


 ならば次は分析だ。この異様な状況を起こしたのは誰で、何故だ。


 それは簡単。命令を下したのはジャン=ステラ様だ。

 ではその理由は? ピエトロ様との後継者争いであろう。


 円卓という小細工を使用してでも、ジャン=ステラ様はご自身をアニェーゼ様と同格であると誇示したいのだ。


 アニェーゼ様と同格であるといったん認められれば、すなわちアニェーゼ様の夫となるピエトロ様ともジャン=ステラ様は同格であると内外に示すのだろう。


 これは、アキテーヌ公爵様、そしてユーグ様からの事前情報にも適合する。

 そう、ジャン=ステラ様は自己顕示欲が強すぎるのだ。


 曰く、2歳でトリートメントを発明した。

 曰く、8歳で蒸留酒を発明した。

 曰く、聖剣セイデンキで賊を討伐した。

 そして、あまつさえご自身を「預言者」だと公言して憚らない。


 たとえそれがご母堂アデライデ様の思惑だったとしても、それはどうでも良い。


 ピエトロ様の妻となられるアニェーゼ様にとって、迷惑この上ない事に変わりはないのだ。


 アデライデ様の支援がない今こそ、ジャン=ステラ様を蹴落とす最大の好機。ジャン=ステラ様が格下であることを思い知らせてやろう。



 副執事に先導され、初顔合わせの儀について協議する小部屋へと移動する。


 道中に会話はなし。無言のままアルベンガ離宮の通路を歩いていく。


 さて、どう料理してやろう。


 貴族の道理を説く? 円卓についてどのような理屈を持ち出してくるつもりだろう。


 まぁ、表面上は取り繕ってくるのであろうな。


 だが、どうでもいい。最後は力だ。


 ありえない事に、傭兵のエイリークが離宮内に入り込めている。

 入り込めているというか、滞在するための部屋まであてがわれている。


 おおかたアニェーゼ様の歓心を買うためだろうが、傭兵を離宮内に入れるとは一体、アルベンガの警備はどうなっているのだ。他人事ながら心配になる。


 いや、アニェーゼ様の嫁ぎ先なのだ。他人事では済まないな。警備の見直しが急務であろう。


 しかし、今の私にとっては都合がよい。


 グダグダ揉めるようなら、エイリークを使って威嚇してやろう。いや、いっそ離宮を武力制圧するのもありだろうか。


 ジャン=ステラ様の罪状は...そうだな。


 アニェーゼ様への不敬で充分だろうよ。「なにせジャン=ステラ様は格下なのだからな、くっくっく」


 いやぁ、想像するだに楽しくてならない。


「ベルナール様、何かおっしゃいましたか?」


 副執事が後ろを振り向いた。

 いかんいかん、思わず声が漏れてしまったか。


「いや、何でもない」


 小部屋へ到着し、扉が閉まるや否や恫喝どうかつするように私は怒鳴る。ただし、顔がにやけないよう、気を付けながら。


「アキテーヌ公爵の息女であるアニェーゼ様を、ジャン=ステラ様と同格扱いするというのですか!」

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