第225話 兄嫁の早着

1064年8月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ


 昼食の片付けが終わった頃、いつもは冷静なアデライデお母様の副執事が、慌てた様子を隠そうともせずに執務室に飛び込んできた。


 もしかして、敵でも攻め込んできた!? 


 アデライデお母様がアスティに行って不在のタイミングを狙うとしたら、髭公ゴットフリート3世か!


「なにがあったの!?」


 僕は身構えつつ聞く体勢を整えつつ、副執事の第一声を待ったというのに、その話を聞いてずっこけそうになった。


「アニェーゼ・ディ・ポワティエ様がアルベンガに到着されました。ジャン=ステラ様、いかがいたしましょう」


 アニェーゼはフランスの大貴族アキテーヌ公爵の妹であり、ピエトロお兄ちゃんの婚約者である。


「僕の記憶によると、アニェーゼさんの到着予定って9月だったんだけど」


「私もそう伺っておりましたので驚いております。ジャン=ステラ様は、アデライデ様から予定変更があったなど、何かお聞きになっておられませんか?」


「何も聞いていないよ。それに、アニェーゼさんが来ると知っていたら、アデライデお母様もアスティに行く時期をずらしたと思うもの」


 お母様にとっても予想外の出来事だっただろうと僕が告げると、アルベンガの留守を任されている副執事の顔から緊張が少し解けてきた。


「やはりそうでしたか。トリノ辺境伯家の落ち度ではないことがわかり、ようやく心が落ち着きました」


 ほっと人心地ついたという風情の副執事を見て、さきほどの驚きを僕は思い出した。


「アニェーゼさんが早く着いたただけにしては、慌てすぎじゃない? 僕はてっきりお母様の留守をいて敵が攻めてきたと思ったんだよ」


「いえ、ジャン=ステラ様。対応の難しさだけを考えれば、敵襲の方が簡単でございます」


 すまし顔に戻った副執事が、しれっと恐ろしいことをいう。


「えー、ちょっと待ってよ。敵が攻めてきたら、大変でしょ?」


 驚いた僕が反論しても、副執事はどこ吹く風。「それがどうしましたか?」って感じだった。


「もちろん、敵が押し寄せれば大変にございます。しかしながら対処法が決まっており判断は難しくないのです」


 守りを固め、来援を請う。それだけで、行動に悩むことは何もないという事らしい。


「一方で、外交の機微を見誤ると、新たな敵が増える可能性があります。


 ピエトロ様の婚約者をないがしろに扱えば、アキテーヌ公爵家の顔に泥を塗ることなります。


 ましてや、ジャン=ステラ様とアキテーヌ公とは未知の世界を二分する条約を結んだ間柄ではございませんか。


 下手な対応はアキテーヌ公爵家との敵対を招き、新たな領土であるカナリア諸島を失いかねません」


 アキテーヌ公爵は、フランスの大西洋側に大領地を持っている。

 地中海の真ん中に位置するイタリアに比べて、新大陸までの距離は近いのだ。


 条約が破棄されたら、不利になるのは僕たちトリノ辺境伯家側である。


 そのため、ご機嫌を損ねるわけにはいかない、といった所だろうか。


「うん、なんとなくわかったよ。ピエトロお兄ちゃんとの結婚式が終わるまでの間、粗相しないよう僕も気を付けておくね」


「ご理解いただきありがとうございます」


 副執事は一礼をし、今後の予定を話し始めた。


「ジャン=ステラ様におかれましては、この後アデライデ様の代理としてアニェーゼ様の挨拶を受けていただき、晩餐ばんさん会へご出席ください」


「あいさつ、そして食事だね。了解。あ、今からお願いしたら唐揚げかトンカツを出せるかな?」


「料理人に命じておきます」


「そうそう、晩餐ばんさんにはアレクちゃんも一緒に出席してもらっていい?」

「アレクシオス様を、ですか?」


 七歳でとっても可愛いアレクちゃんの本名はアレクシオス・コムネノス。


 留学生みたいな扱いでアルベンガ離宮に滞在しているから、そのうちアニェーゼさんにばったり遭遇そうぐうするにちがいない。だったら、早めに紹介しておいた方がいいよね。


 それにアレクちゃんは唐揚げが大好きだもん。きっと喜ぶよ。むしろ誘わなかったらねちゃいそう。


 それに唐揚げを頬張るニコニコアレクちゃんを見たら、きっとアニェーゼさんもほわほわーって幸せな気分になるよ、ぜったい。


「どうせなら、挨拶の場にもアレクちゃんを呼んでおこうかな」


 あれ? なんだか副執事が困惑している気がするんだけど、なんか変な事を言っただろうか。


「ジャン=ステラ様がお決めになったのであれば、アレクシオス様の同席について私がとやかく申せる立場にございません。

 しかしながら、席次はどうされるおつもりでしょうか」


 席次かぁ。こういう時、貴族って面倒くさいなぁ。


 幸いなことにお母様が不在だし、ちょっとくらいゆるくしてもいいよね。


 だって、12歳の女の子を歓迎する11歳の僕、そして7歳のアレクちゃんなんだもん。それにアニェーゼさんは僕の義理のお姉さんになるんだし、そこまで堅苦しく考えなくてもいいと思うんだよね。


 かしこまった礼儀作法を守れと押し付けてくる大人もいないし、ここは子供同士楽しくおしゃべりを楽しもう。


 そう決めた僕は、

「丸いテーブルに3人で座ってお話しすることにするよ。これなら席次は関係なくなるよね」


「は、はぁ。ジャン=ステラ様がそれでよろしいのでしたら...…」


 なんだか歯切れの悪い返答だけど、きっと円卓の騎士とか傘連判状とか知らないんだろうね。


「あ、そうそう。アニェーゼさんが連れてきた人達には、蒸留ワインを忘れず出してあげてね」


 フランス大西洋岸からアルベンガまで長い道のりを旅してきたんだもの。ちゃんと気配りを忘れないようにしないと。


 あとはそうだね。アニェーゼちゃんのためにトリートメントのプレゼントを用意しておこう。

 それとも、トリートメントはピエトロお兄ちゃんから渡してもらった方がいいのかな?


 いやいや、ピエトロお兄ちゃんがアニェーゼちゃんに贈るのは結婚指輪のはず。


 ピエトロお兄ちゃんとの初対面前に、すてきなツヤツヤ髪の毛になりたいって、アニェーゼちゃんもきっと思うよね。


 そんな風にアニェーゼちゃんへのプレゼントをあれこれ考えていたら、すぐ挨拶の時間がやってきた。


 僕はアレクちゃんと手を繋ぎ、挨拶会場となる謁見の間へとわくわく気分で向かった。


「アニェーゼお姉ちゃんってどんな人かな?」

「楽しくお話できるといいよね」

「フランスの話をしてくれたら、かわりにギリシアの話をしたいなっ」


 それなのに......。


 血相を変えた副執事が、前方から走ってきた。


「ジャン=ステラ様。報告いたします。アニェーゼ様は、席次が不服として客室へ戻られました。


 アニェーゼ様の側近と、本件について擦り合わせをいたしますので、しばし執務室でお待ちください」



1064年6月 フランス アニェーゼ・ディ・ポワティエ


 私は運が悪いのかもしれない。そう思ったのはいつ頃だったかしら。


 最初の夫は、私が5歳の時にお父様が見つけてきました。


「アニェーゼ、お前はきっと幸せになる。俺が幸せな結婚相手を見つけてきた」


 お相手はアラゴン王ラミロ1世でした。


 私よりも35歳も年上だったこともあり、婚約後はアラゴンの宮廷で一人寂しく私は育てられることとなったのです。


 そして、そろそろ私も女になろうかという11歳の時、夫ラミロ1世はこの世を去りました。戦死でした。


 ラミロ1世の後を継いだのは義理の息子のサンチョ。息子とはいっても私より10歳も年上で、当たり前ですが血は繋がっていません。そんな私は厄介払いされ、実家のアキテーヌ公爵家へと戻されたのです。


 きっと当時の私は、生気のない目をしていたとことでしょう。

 長年住んでいた宮殿を離れ、実家に戻る私の心は暗く重いものでした。

 優しかったお父様はもう亡くなっていて、叔父が後を継いでいた事もさらに私の心を重いものにします。


 父と叔父は仲が悪かったこともあり、私は政略結婚の駒として再びすぐに嫁ぐことになりました。


「アニェーゼ様、トリノ辺境伯家のピエトロ豪胆伯が嫁ぎ先となりました」


 今度の嫁ぎ先を持ってきたのは、フランスに多数の修道会を有するクリュニー会の院長であるユーグ様でした。


「スペインの次はイタリアですか……」


 はぁ、とため息の一つも出るというもの。当主の都合で嫁がされるのは貴族女性の常とはいえ、言葉も習慣も異なる場所で暮らすことになる身にもなっていただきたいものです。


 そうは言っても、辺境伯家の嫡男へと嫁げるのですもの。表面だけを見れば、後家である私には勿体ないご縁ではあるのでしょう。


 親族も側近達も、「アニェーゼ様、おめでとうございます。今度こそ幸せになれます。素晴らしい嫁ぎ先を見つけてきたユーグ様に感謝いたしましょう」とお祝いの言葉を述べてくれるのです。


 しかし、私は知っています。この婚姻が一筋縄ではいかないことを。


「アニェーゼ、お前の役目はトリノ辺境伯家の実権を握る事だ」


 これが叔父に与えられた、私の使命なのです。


 私の夫となるピエトロ様はトリノ辺境伯の当主であり、また豪胆伯という二つ名を持つ勇猛なお方なのだとか。


 しかし、トリノ辺境伯の実権はお義母さまとなるアデライデ様が握っています。


「叔父様、アデライデ様から実権を奪うのは無理だと思うのですが……」


 トリノ辺境伯の正当な跡継ぎは、アデライデ様なのです。いくら嫡男とはいえサヴォイア家の血統であるピエトロ様の、さらにその嫁が実権を奪うことはできないと思うのです。


「ああ、そのことは俺も理解している。お前に期待しているのはジャン=ステラに実権を渡さない事、ただそれだけだ。なぁ、ユーグ殿」

「ええ、その通りです。アキテーヌ公爵様」


 アデライデ様は、末子であるジャン=ステラ様をいたく可愛がられているご様子。

 その可愛がりぶりは異様ともいえる次元であり、教皇猊下に願って「預言者」の称号を与えようと画策しているのですって。


「神をも恐れぬ所業だと私、ユーグは思うのです。しかし、力は正義をもゆがめてしまいます。アニェーゼ様、ぜひ神の教えを正すためにも、トリノ辺境伯家の実権をアデライデ様から取り返してください」


 叔父とユーグとで言っている内容が少し違う気がするのですが、二人はさして気にしていない模様です。


「なぁに、ジャン=ステラは毎年大量の銀塊を我ら二人に贈るほどの腰抜けなのだ。アキテーヌ公爵家の血を引くお前がピエトロ殿の嫁となれば、権力の天秤は豪胆伯ピエトロ殿に傾くだろうさ」


 ジャン=ステラ様も、ピエトロ様と後継争いを有利に進めるため叔父様とユーグ様の援助を必要としているという事でしょうか。


 弱い者は強いものにびる事でしか生き延びられないのですね。その現実が心の柔らかい部分をえぐってきます。


 辺境伯家の嫡男に嫁げると思ったら、再び権力争いの渦中に巻き込まれることが決定してしまいました。

 その運のなさに、叔父様の前にもかかわらずため息がでてきそうになります。


 しかし、しかしです。少しは前向きに考えてみましょう。

 私の未来を思えば、ピエトロ様に権力を掌握いただくのは決して悪いことではありません。


 叔父様の、そしてユーグ様からの支援が得られるのは僥倖ぎょうこうかもしれませんね。


 そうは言っても問題は山積みです。


「しかしながら、叔父様、ユーグ様。私に権力を掌握しょうあくできるような能力があると思われますか?」


 はっきりとは言いませんが、私には無理です。私は権力争いに飛び込み大活躍できるような性格ではありません。むしろ、部屋に引きこもって編み物をしているのが似合う、大人しい女なのです。


 それは、叔父様とユーグ様もお分かりのはず。


「ああ、それは分かっている。お前には優秀な側近をつけてやろう。それに傭兵もな」


 傭兵の名はエイリークといい、大変航海術に長けたノルマン人だと教えていただきました。


 私は知りませんでしたが、お父様の代から海上戦力の傭兵として雇われていたようです。


 もちろん私に拒否権があろうはずもありません。


 かくして私はエイリークのロングシップに守られつつ、ガレー船でイタリアのアルベンガへと向うこととなりました。

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